2023年12月26日火曜日

葛城

葛城一言主神社
葛城は、奈良県中部、金剛山地の東に広がる一帯です。奈良盆地の南端に位置し、東には飛鳥、東南は吉野山系へと続きます。葛城という地名は、神武天皇が葛で土蜘蛛を捕らえたことに由来するとされます。土蜘蛛とは、昆虫のツチグモではなく、鬼という言葉と同様、ヤマト王権に敵対した土着の豪族を指します。関東、九州、北陸等の風土記に多く登場するようですが、ヤマト王権が奈良盆地に進出した当初は、当然、畿内にもいたわけです。葛城の地には、不思議な伝承があります。一言主(ひとことぬし)神、そして、その別称である葛城の神に関わるものです。 5世紀に在位したと想定される雄略天皇と一言主神の話は、記紀等に記載されています。

8世紀初頭に成立した古事記によれば、ある時、雄略天皇は、共を従え、葛城山へ狩りに出かけます。すると谷を挟んだ向こうの尾根に、出立も人数も天皇一行と同じ一団を発見します。天皇が問いかけると「吾は、悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えます。恐れ入った天皇は、一行の武具や衣服を差し出したというのです。それが日本書紀になると、天皇と一言主神は、共に狩りを楽しんだと記述されます。そして、8世紀末の続日本書紀に至ると、天皇と狩りの獲物を争った一言主神は、天皇の怒りをかい、土佐に流されたと変わっていきます。さらに9世紀の日本霊異記になると、葛城の神(一言主神)は、修験道の開祖である役行者にこき使われることになります。

役行者は、修験道総本山である吉野の金峰山と葛城山の間に岩橋を架けるよう、一言主神に命じます。一言主神は、その醜い容貌が人に不快な思いをさせることを案じ、夜の間だけ作業します。作業が進まないことに起こった役行者は、一言主神を葛でぐるぐる巻きにします。また別ヴァージョンでは、架橋に使役されたことを不満に思った一言主神が、役行者に謀反の罪を被せます。伊豆に流された役行者は、一言主神を呪詛します。わずか100年の間に、一言主神は、天皇が恐れ入る存在から、役行者に使われる神にまで落ちたわけです。普通に考えれば、天皇家と姻戚関係を深め隆盛を誇った葛城氏の没落の過程が象徴されているのだろうと理解できます。ところが、葛城氏が没落したのは、遙か昔、5世紀のことです。

葛城氏、およびその姻戚である吉備氏は、滅亡させられたとは言え、その一族・縁者が、まだ地方に残存していた可能性はあります。一言主神社が各地に創建されてることは、その証左かもしれません。8世紀、大和朝廷による中央集権化が進み、もはや葛城氏の残党を気にする必要がなくなったとも考えられます。また、”大同二年の謎”として知られるとおり、関東以北の多くの神社が、大同2年(807年)の創建となっています。蝦夷征討を成し遂げた大和朝廷が、地の神々を天照大神を頂点とする天孫家の信仰体制に組み込んだということなのでしょう。一言主神の扱いの変化も、これに呼応するものなのかもしれません。あるいは、絶頂期に向かって勢力を拡大する藤原氏と興福寺のおごりも背景にあったのかもしれません。

一説によれば、5世紀、いまだ政権基盤が脆弱だったヤマト王権は、葛城氏と両頭政権を組まざるを得なかったとされます。吉備氏との姻戚関係も持つ葛城氏は、王権にとって脅威だったわけです。皇位継承を巡る一連の政変のなかで、葛城氏は、新興の大伴氏や物部氏に敗れます。葛城氏の主な基盤は物部氏が引き継ぎますが、その物部氏は、丁未の乱で蘇我氏に敗れ、蘇我氏は乙巳の変で藤原氏に滅ぼされます。驕れるものは久しからず、というわけです。葛城氏没落から500年後の平安時代、一言主神の逸話はよく知られていたようです。醜さを恥じる、あるいはそれゆえに朝には姿を消す、といった下りが、和歌等において比喩的に使われていたようです。1,500年を経た今、一言主神の逸話は、必ずしも一般的ではありませんが、葛城、土佐をはじめ、各地に一言主神社は残っています。(写真出典:yamatoji.nara-kankou.or.jp)

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