監督:リドリー・スコット 2023年アメリカ・イギリス
☆☆+
リドリー・スコットという名前は、我々の世代にとって、映画そのものだったとも言えます。”エイリアン”(1979)でヒット・メイカーとして名乗りをあげ、”ブレード・ランナー”(1982)でカリスマの地位を確立し、”ブラック・レイン”(1989)や”テルマ&ルイーズ”(1991)で才人ぶりを見せつけ、”グラディエーター”(2000)、”ブラックホーク・ダウン”(2001)で巨匠の一角を占めるに至ります。リドリー・スコットは、ヒットを飛ばす一方で、時折、駄作を作ることでも知られます。とは言え、私は、評価の低かった”プロヴァンスの贈り物”(2006)、あるいは”悪の法則”(2013)も好きでした。本作でも、さすがと言える映像、そつのない演出は見事ですが、そもそも企画段階から無理があったのではないかと思えます。リドリー・スコットの才能が光るのは、直線的構造を持つ娯楽映画だと思います。叙事詩的な映画では、器用さが禍するのか映画が散漫になる傾向があります。本作では、ナポレオンの偉業、そしてナポレオンとジョゼフィーヌの関係という2本の映画を交互に見せられているような印象を受けます。偉業パートの映像は、実に見事なスペクタクルになっていますが、妻との関係パートについては、ややイメージ・ビデオ的な傾向があります。長尺になりすぎるので、カットせざるを得なかったのかもしれません。結果、映画は、ナポレオンという複雑な人格にフォーカスできていません。
それにしてもホアキン・フェニックスの演技は見事なものです。外見も、まさにナポレオンそのもののよう見えてきます。ジョゼフィーヌを演じたのは、英国のヴァネッサ・カービーです。現代的な自己主張の強さを感じさせる顔立ちが魅力的な女優です。ヴァネッサ・カービーの起用は良い着眼であり、彼女も良い演技をしたと思います。ただ、映画としては、彼女の起用が残念な結果を招いている面があります。彼女の独特な魅力がコスチューム劇のなかで削がれる一方で、隠しきれない現代性がドラマをやや深みに欠けるものにしています。例えば、同じヴァネッサでも、往年のヴァネッサ・レッドグレーブのように、ミステリアスな表情で、ドラマの奥深さを表現できるような女優が望ましかったように思います。
この映画最大の論点は、ナポレオンの描き方だと思います。監督はナポレオンを、”コルシカ出身の粗野な田舎者”として描いています。それは否定できない一面でしょうが、それだけでナポレオンを語ることには無理があります。監督のナポレオン像は、フランス革命とナポレオンを否定し王政を復古したウィーン会議と同じ見方とも言えます。革命と反革命という視点が希薄で、所詮、英国から見たナポレオン像と言われてもやむを得ません。実際のところは、史実よりも娯楽性を優先しただけなのでしょう。映画は単なる娯楽だと言い切ることもできます。ただ、情報量の少ない古代ローマならいざ知らず、近世を描くとすれば、それでは済まされません。例え娯楽映画であったとしても、映画は常に政治的なものです。
実は、リドリー・スコットが、娯楽性を追求するために改ざんしたのは、ナポレオン像だけではありません。例えば、アウステルリッツの戦いにおける有名な湖のシーンです。ロシア兵が凍結した湖面を敗走すると、フランス軍が砲撃によって氷を割り、ロシア兵が次々と湖に沈んでいくという展開になっています。これは、戦果を劇的に伝えたいナポレオンの嘘だったことがよく知られています。もっと驚いたのは、ナポレオンがピラミッドを砲撃させるシーンです。これは、完全に事実無根であり、ピラミッドにその痕跡などありません。やり過ぎです。このシーンだけでも本作は「リドリー・スコットのなんちゃってナポレオン伝」的な映画になっています。リドリー・スコットが、叙事詩的作品に不向きであることを如実に伝える映画でした。(写真出典:imdb.com)