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吉野ヶ里遺跡 |
水田には、水を出し入れする、いわゆる潅漑設備が不可欠です。また、畦(あぜ)を作って田に水を蓄える仕組み、あるいは田毎に高低差をつけ、効率良く水を行き渡らせる仕組みも必要となります。同時に、田を耕す、稲を刈り取るといった道具も必要となります。板付遺跡には、既に、これらが揃っています。中国で完成された水稲技術が、そのまま渡来していたわけです。同時に、縄文時代には無かった環濠集落という村の姿も渡来しています。環濠集落とは、集落を濠で囲み、外敵、害獣の侵入を防ぎ、排水にも活用します。稲作は、人類の食糧事情を飛躍的に改善するとともに余剰生産物を生み出しました。貯蔵米は、水田、労働力、道具類と併せ、所有するという概念を強めます。守るべきものが生じたわけです。
環濠集落は、8千年前に、稲作が始まった長江流域、雑穀栽培を始めた南モンゴルに登場したとされています。日本には、稲作とともに伝わった環濠集落ですが、弥生時代から古墳時代に入っていくと、姿を消していきます。稲作がもたらした余剰生産物は、集落にヒエラルキーを生み出します。生産拡大とともにリーダー層は強大な力を持ち、小規模な集落を超える存在になっていきます。多数の集落を包括したクニの誕生です。すると各集落の環濠が持っていた防衛的側面は意味を失い、環濠集落は消えていくわけです。ただ、欧州や中国では、環濠集落の規模がどんどん拡大し、城と町をまるごと城壁で囲んだ城塞都市が誕生してゆくのに対して、日本では、それが起きていません。
城塞都市が生まれなかった理由はいくつか考えられます。まずは、山が多く、起伏に富んだ国土という特性があげられます。平原とは違い、山、高台、川を活用すれば、城壁で囲うまでもなく同じ効果が得られます。また、火山の多い日本では、加工しにくい石材が多いことも理由になります。加えて、平地が少なく、切り出した石材の運搬も困難になります。日本の石材の多くは、山で切り出し、舟で運ぶ方法がとられていますが、それでは城の石垣がせいぜいで、高い城壁で町を囲むことなど夢のまた夢です。そして地震、洪水、噴火といった天災が多く、石積みが崩れやすいことも影響しているのでしょう。ただ、戦国時代には、城と城下町をまるごと、塀、石垣、濠、土塁等で囲った”総構え”が登場しています。総構えとしては、小田原や江戸がよく知られています。
板付遺跡を訪れ、最も驚いたのは、見学者の少なさです。日本最古の称号は菜畑遺跡に明け渡したものの、日本最古級の水田跡、環濠集落遺跡です。私が訪れたのは平日のお昼頃ですが、その日、二人目の来訪者でした。確かに縄文・弥生系の遺跡への来訪者は少ない傾向があります。藁の小屋と土器・石器、他には原っぱばかりですから。とは言え、もっと多くの見学者を集めるような努力は必要なのではないかと思います。翌日、佐賀県の吉野ヶ里遺跡も見学しました。日本最大級の弥生遺跡であり、いくつかの環濠集落、多くの建造物、水田、植生が再現されています。こちらは、平日にも関わらず、観光バスも数台来ており、結構な数の来訪者がいました。(写真出典:asahi.com)