2023年12月17日日曜日

「首」

監督:北野武    2019年日本

☆☆+

(ネタバレ注意)

ビートたけしが監督する映画を、初めて観ました。たけしの映画を嫌ったのではなく、そもそも日本映画をほとんど観ないからです。俳優としての北野武は、崔洋一監督の「血と骨」(2004)で観ました。鬼気迫る演技は見事なものでした。コメディアンに悪役をやらせたら絶品という法則そのものだと思いました。監督としての北野武は、ヴェネツィア国際映画祭での金獅子賞、銀獅子賞に象徴されるとおり、今や世界的巨匠となっています。一度、観てみたいと思っていたのですが、なぜか北野映画はネットで配信されていないこともあり、機会がありませんでした。「首」は、正直、がっかりしました。ただ、周囲に聞くと、これまでの北野映画とは、まったく異なるとの評でした。失敗作ということなのでしょうか。

構想30年と言いますから、随分と思い入れのある映画なのでしょう。ただ、役者は、常連も含めて集めたものの、プロダクション・サイドの問題が重なり、これまでと同様の支援体制がない状態で制作せざるを得なかったようです。そのせいかどうかは分かりませんが、編集が酷いことになっていると思いました。本作は、編集し直せば、まったく印象の異なる映画になる可能性が高いと思います。結果的には、たけしの歴史に関する仮説がゴチャゴチャと提示されているだけという代物になっています。本来的には、農民出身である秀吉の視点から武士の首や男色へのこだわりをあざ笑い、武士を美化することなく、その真実、そして戦国の世の不毛を映像化したかったのでしょう。

それは、単に歴史のリアリティを追求するということではありません。仮説や創作も含めて、史実を再構成し、監督の思想や視点を明確に伝えるという手法が指向されたものと思われます。だとすれば、それは、かなり面白い試みになっていたはずです。ただ、誠に残念なことに、映画はフォーカスを失い、散漫な印象だけを残す結果になりました。また、映像的には、やや奥行きに欠ける傾向があり、ベタっとした印象を受けました。これも編集上の問題の現れという可能性もあります。他の北野映画はどうなのか知りませんが、本作では、テーマを訴求するうえで、あえてロング・ショットや広がりのあるショットを排除するという判断をしたのかもしれません。  

面白いことに、本作に女性はほとんど登場しません。時代劇に付き物である奥方や姫君は皆無です。ここにもたけしの強い意図を感じます。恐らく、時代劇に登場する女性たちは、観客に媚びるために登場させられているのだと思います。実在する女性であっても、時代背景からすれば存在感が薄く、かつ記録が残っていたとしても極めて限定的だと思われます。日本人の歴史認識は、おおむねフィクションにすぎない時代劇によって形成されていると言えます。やたら美化された武士のイメージもさることながら、やたら存在感のある戦国の女性たちについても作られたものなのでしょう。たけしは、誤解をもたらしてきたエンターテイメントのあり方も強く批判したかったのだと考えます。

光秀が三日天下に終わった最大の要因は、本能寺で信長の首を見つけられなかったことだとされます。つまり、信長の死が証明されないため、武将たちは半信半疑となり、光秀への加担をためらったとされます。その間に”中国大返し”で京まで戻った秀吉は、体制が不十分な光秀軍を山崎の戦いで破ります。映画では、弥助が信長の首をはね、持ち去ります。たけしの思い入れが強いラスト・シーンを成立させるための創作なのでしょう。ちなみに、信長の首は、囲碁の本因坊家の開祖となる日海、後の算砂が、信長の指示に基づき、碁盤と共に風呂敷に包み持ち出したという説があります。確かに、算砂は本能寺の変当日、信長の前で対局を行っています。その際、“三劫”という世にも珍しい局面が現れます。三劫とは、互いの石を取り合う循環局面が盤面上に3ヶ所以上現れ、対局がそれ以上進まなくなる状態です。事の真偽はともかくとしても、以降、三劫は不吉とされているようです。(写真出典:cinematoday.jp)

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