2023年12月11日月曜日

倭国大乱

古津八幡山遺跡
越後平野は、新潟県の中部から北部に広がる広大な平野です。東端には、新津丘陵があり、その一角に「古津八幡山遺跡」があります。弥生時代後期から古墳時代前期の高地性環濠集落であり、国指定史跡にもなっています。ほぼ最北、少なくとも日本海側では最北の環濠集落です。高地性環濠集落は、弥生時代中期に瀬戸内に登場し、後期には近畿一円、そして古墳時代前期には、北陸・新潟にまで広がります。周囲に水田を持つ平地の環濠集落とは異なり、高地性環濠集落は、敵に対する防御に徹した山城のようなものではないかと推測されています。古津八幡山遺跡も、越後平野を一望できる小山の上に築かれています。高地性環濠集落は、いわゆる「倭国大乱」の痕跡とする説が有力だと聞きます。

この時期の日本の歴史は、中国の史書に頼らざるを得ないわけですが、複数の史書に、倭国大乱、あるいは倭国乱の記載があります。大乱に関する記述内容は、史書によって若干の違いもあり、解釈を巡って諸説があるようです。大乱の発生時期はおよそ2世紀後半とされ、少なくとも8年間に渡って戦われたようです。場所に関して、史書は倭国とするばかりで、倭国のどこかは発掘物によって類推するしかありません。現在は、九州から瀬戸内、そして畿内と推定されているようです。恐らく、当時の倭国の主要部分すべてということなのでしょう。各史書とも、大乱の原因について、倭国は男子を王としてきたが、王位継承を巡る争いが起きたと記述しています。つまり、王統の断絶が原因だったということです。

この点に関しても、大いに議論があるようです。当時、倭国は多くの部族に分かれており、ここで言う倭国王とは、統一国家の王ではなく有力部族の王ではないかと考えられます。有力部族内部での紛争が、他部族も巻き込み、大乱化したと考えることができます。また、2世紀初頭から寒冷化が始まったことも大乱の背景にあるのではないでしょうか。稲作は、食料の大量生産を実現しますが、一方で天候に左右されるというリスクもあります。飢饉は、雑食だった縄文時代には存在せず、稲作に特化した弥生時代以降に発生するわけです。寒冷化に伴う飢饉発生を受け、各部族は、生き延びるために他の部族を襲い、貯蔵米と耕作地を奪うしかなかったのではないかと考えます。

大乱の収束に関する史書の記述は一致しています。呪術を用いる卑弥呼を王とすることで大乱が収束したとされています。大乱のなかで部族間のヒエラルキーが生まれ、結果、部族連合が形成されていったものと考えられます。そして、いずれの部族の王でもない邪馬台国の卑弥呼を王に立てることで、部族間のバランスを保ったということなのでしょう。邪馬台国も卑弥呼も、中国の史書にのみ登場し、日本の記紀等には記載がありません。そこで邪馬台国はどこにあったのか、卑弥呼とは誰なのか、という議論が盛り上がりました。近年では、纒向遺跡を邪馬台国政庁、箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説が有力と聞きます。大型建造物跡を含む纒向遺跡は、突如、3世紀頃に現れます。その近くにある巨大な箸墓古墳は、最古の前方後円墳とされます。

中国の史書には、卑弥呼の記述を最後に”倭の五王”の時代までの約1世紀、倭国に関する記述がありません。いわゆる”空白の4世紀”です。その間に、天孫家が部族連合のトップに立ち、ヤマト王権の基盤を固めていったものと想定されています。しかし、纒向遺跡が邪馬台国、箸墓古墳が卑弥呼の墓だとすれば、奈良盆地を基盤とする天孫家は、既に2世紀後半~3世紀前半、倭国大乱を勝ち抜き、部族連合のトップに立っていたという可能性もあります。邪馬台はヤマトとも読めます。倭国大乱がヤマト王権を生み出したということかも知れません。倭国大乱は、日本に農耕が伝わって、約千年後に起きています。戦争と大王の誕生は、農耕が人間にもたらしたものを象徴しています。そこに到達するのに千年とは、人類の歴史からすれば、随分と早いようにも思えます。(写真出典:jalan.net)

マクア渓谷