2021年6月5日土曜日

真打

立川談志が、昭和を代表する落語の名人であったことについては、何の議論もないと思われます。古典落語に現代的感覚を持ち込んだことでも知られます。才気煥発にして理論家でもあった談志は、国会議員も含め、実に様々な分野でも活躍しました。また、破天荒な言動が、大いに物議も醸しました。 その最たるものの一つが、落語立川流の創設でした。1983年、当時、落語協会の会長であり、自らの師匠でもあった柳家小さんと、弟子の真打昇進を巡って対立し、協会を脱退、立川流を立ち上げました。実は、談志の真打昇進を巡る騒動には、前史があります。

談志は、1952年、16歳で小さんに弟子入り、2年後には二つ目に昇進します。当時から、落語はうまいし、漫才やコントまでこなし、随分目立っていたようですが、真打昇進では、自分よりも後輩の3代目志ん朝、5代目圓楽に先を越されます。自信家でもあった談志にとって、これは大きなトラウマになったようです。1978年には、落語協会分裂騒動が起こり、6代目三遊亭圓生が「落語三遊協会」を立ち上げ独立します。1930年に、6代目春風亭柳橋や柳家金語楼が立ち上げた「落語芸術協会」に続く第3の団体でした。落語芸術協会独立のきっかけは、落語家がラジオで人気を博すことに危機感を覚えた寄席経営者の締め付けでした。後ろには吉本興業の手引きがありました。落語三遊協会の場合は、立川流独立と同様に、真打昇進問題が契機となりました。実は、独立を唆したのは、談志だったといわれます。

6代目三遊亭圓生は、まさに名人でしたが、なかなか偏屈な人でもあったようです。芸道一筋、昔気質の職人のような人だったのでしょう。落語協会長時代の圓生は、真打は落語家のゴールであるとして、なかなか真打昇進を認めませんでした。次いで協会長になった小さんは、真打は落語家のスタート、その後、売れるか売れないかは本人次第、という考え方でした。小さんは、圓生時代に滞留した二つ目を大量に昇進させます。圓生は、これに激怒します。圓生に独立を唆した談志は、三遊協会の2代目協会長を狙っていました。ところが圓生は、志ん朝を2代目と考えていたことから、談志は落語協会に残留します。その談志も、5年後には独立するわけですから、真打へのこだわりに加え、師匠である小さん、ライバルである志ん朝との長くて深い因縁話と言えます。

真打は、落語会最高の位であり、高座のトリを任されます。昔、トリの話が終わると、寄席は店じまい、蝋燭の芯を打って(切って)明かりを消します。この”芯を打つ”が転じて、真打になったと言われます。真打には、明確な昇進基準があるわけではありません。そこがトラブルの元になるわけです。現在は、おおよそ年功に基づき、各団体役員の協議で決めているようですが、かつて立川流では、基準を定め、試験を行っていたこともあります。なお、抜擢真打もあります。いわゆる”〇人抜き”という昇進です。かつては、3代目志ん朝や10代目小三治、あるいは春風亭小朝の36人抜きがありました。近年では、2012年に古今亭文菊の28人抜きが話題になりました。芸術協会では、桂歌丸会長が抜擢に否定的だったことから、久しく絶えていましたが、2020年、神田伯山が、92年の春風亭昇太以来となる抜擢真打になりました。

過日、志の輔門下の立川志の春真打昇進披露公演が国立演芸場でありました。コロナの影響で、1年遅れの披露目となりました。渋谷幕張中高、イェール大、三井物産という超エリートから落語に転身した期待の変わり種。それにしても、寄席ではなく、国立演芸場での披露目。立川流は、いまだに定席寄席は出入禁止です。落語三遊協会は、今は円楽一門会となっていますが、同様、定席には上がれません。ただ、お江戸両国亭で定例公演を行っています。日本の話芸継承のためにも、大同団結していい頃合なのではないかと思います。落語ファンとしては、レベルの高い高座が期待できますが、落語家としては、限られた高座の奪い合いですから、そう簡単な話ではないのでしょう。(写真出典:tower.jp)

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