2021年6月12日土曜日

甘酒茶屋

かつての東海道、今は箱根旧街道と呼ばれますが、畑宿と元箱根の中間あたりに甘酒茶屋はあります。400年前に開業し、現在のご当主は13代目になるそうです。江戸幕府が箱根街道を整備した頃に店を出しているわけです。さすがに建屋は、何度か手を加えてきたようですが、往時の面影をしっかり残しています。”箱根八里”とは、小田原宿・三島宿間を言います。明治後期の唱歌「箱根八里」(鳥居忱作詞、瀧廉太郎作曲)に”箱根の山は天下の嶮、函谷關もものならず”と歌われるとおり、箱根街道は、非常に険しい山越えの道です。ぬかると危険なので、江戸期には石畳も整備され、一部は今も残ります。畑宿と箱根の関所の間にあって、甘酒茶屋は、貴重な休憩所だったわけです。ちなみに”函谷關”とは、中国河南省にある古代からの難所。切り立った崖の中を数キロに渡って道が続き、いくつかの歴史的な戦いの舞台にもなっています。

 私は、古民家が大好きです。東西を問わず、古民家系のレストランやカフェにも惹かれます。古民家で、昔の人々の生活を想像すると、興味が尽きることはありません。甘酒茶屋は、生きた博物館とも言え、雄弁に江戸の生活を感じさせます。甘酒茶屋は、文藝絵画にも、しばしば登場していますが、最も有名なのは忠臣蔵の”神崎与五郎 東下りの詫び証文”だと思います。京から江戸へ向う赤穂浪士神崎与五郎(神崎則休)が、甘酒茶屋で休んでいるとやくざな馬子の丑五郎に「馬に乗れ」と言われます。与五郎が丁重に断ると、弱腰侍と見て取った丑五郎は、図に乗って、しつこくからみます。討ち入り成就のために、ここで面倒は起こせないと、我慢に我慢を重ねる与五郎は、詫び証文まで書かされます。討ち入り後、与五郎が赤穂浪士の一人と知った丑五郎は、自分の行いを恥じ、出家して与五郎を弔ったという後日談もあります。

甘酒茶屋というくらいですから、一番の売りは甘酒です。甘酒の歴史は古く、古墳時代には醴酒(こさけ)等として知られ、「日本書紀」にも天甜酒(あまのたむざけ)として登場しています。その製法も、古くから、米麴と米で作る方法、そして酒粕から作る方法の二つが確認されています。甘味が貴重であったことから、ハレの日の飲料として一般的だったようです。また、栄養価が高いことから夏バテ対策としても親しまれ、俳句では夏の季語とされています。甘酒茶屋の甘酒は、江戸時代からの製法を受け継ぎ、米麹と米だけで作っているそうです。砂糖を入れていないので、ほんのりとした甘さが心地よい甘酒です。箱根八里を越えていく旅人にとっては、このうえない体力回復の妙薬だったのでしょう。甘酒茶屋では、夏になると冷やした甘酒も出してくれます。

峠越えの体力を確保するための力餅も大事なメニューです。磯辺ときなこが基本ですが、きなこに荒く挽いた黒ゴマをまぶしたものも数量限定で出しています。黒ゴマが香ばしくて、2切の餅など、ペロリといけます。また、おでんもスルーできないメニューです、いわゆる昔ながらの煮田楽のスタイルです。出汁で煮た玉こんにゃくに特製の味噌だれをかけて食べます。もともと田楽は、豆腐に味噌を塗って焼いたものですが、江戸初期には、煮て味噌をかける簡便な煮田楽が流行し、後におでんへと発展していきます。甘酒茶屋の玉こんにゃくは、他では見かけない、ザクザクとした荒い食感が特徴的で、江戸期のこんにゃくはこんな感じだったか、と思わせます。味噌だれが、また絶品。きめ細かく味噌の風味が強いのですが、酒や味醂、あるいは木の芽等の風味がいい味を出しています。最後は、器をなめりたくなります。

客の大半は車で訪れるのかと思いきや、いつも必ずハイカーたちがいます。恐らく五街道制覇組ではないかと思います。先輩に一人、江戸期の五街道を全て踏破したというツワモノがいます。聞けば、結構、ハマっている人たちがいるとのこと。四国八十八ヵ所巡り、全国百名山巡り等と並ぶメジャーな旅だそうです。街道と言っても、箱根のようにほぼ厳しい登山という場所もあります。老人の暇つぶしではありますが、実にハードな挑戦です。(写真出典:ja.wikipedia.org)

マクア渓谷