2016年に、呉座勇一が「応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱」を中公新書から出すと、分かりやすいと評判になり、歴史書としては異例のベストセラーになり、以降、出版界の日本史ブームが起きました。他の歴史書よりは分かりやすかったのかもしれませんが、題材そのものがグダグダとしているので、一気に読めるほど明解なものでもありませんでした。そもそもは、三管領家の一つ畠山氏の家督争いが起こり、もともと不仲だった山名宗全と細川勝元が介入します。そこに足利将軍家のお家騒動が重なり、戦は複雑な様相を呈します。全国各地の有力な武家も巻き込まれますが、彼らの動機としては領土的野心が大きく、戦はさらに複雑な構造になり、長引くことになりました。
応仁の乱に関係する人物のなかで、最も名が知られているのは、ひょっとすると日野富子かも知れません。富子は、室町幕府8代将軍足利義政の正室でした。生家は、藤原北家の流れを組む日野家であり、3代将軍義満以降、将軍の正室は日野家から嫁いでいます。また、富子は、 北条政子、 淀君と並び、日本三大悪女の一人とも言われます。もちろん、基準など明確ではありませんが、少なくとも歴史に大きな影響を与えたという点は共通しています。女だてらに、政治に口を出した、という家父長的価値観から、悪女とされているのかもしれません。 富子には男子が産まれず、将軍義政は、実弟を環俗させ、後継者とします。ところが、翌年、富子に男子が誕生。富子は、我が子を将軍にすべく暗躍します。これが、応仁の乱を一層複雑にしました。
富子を悪女とする理由は、他にもあります。20歳の時に男子を出産しますが、その日のうちに亡くなります。富子は、嫡男死去を、足利義政の乳母にして寵愛を受ける今参局(いままいりのつぼね)の呪詛のせいだとして、琵琶湖の沖ノ島に流罪とします。そして、今参局は、流される途中で刺客に襲撃され、自害しています。刺客を差し向けたのは、富子とも、富子の祖母にして義政の母でもある日野重子だとも言われます。富子は、義政の4人の側室をも追放しています。さらに、富子には、守銭奴としての悪評がありました。東軍側にも、西軍側にも、軍資金を貸し出し、さらに米の投機でも荒稼ぎし、結構な財産を築いたようです。また、応仁の乱の後、京の入り口数ヶ所に関所が設けられ、神社仏閣の再建のために通行料が徴収されていました。富子は、これを自らの懐に入れていました。さすがに、これは民衆の怒りを買い、一揆が起きています。
もちろん、富子は、贅沢をするために蓄財に走ったのではありません。 将軍の御台所として、日野家の娘として、贅を極めた生活を送っていたはずです。富子は、戦乱の世にあって、実子を将軍にするために、できることは何でもする覚悟だったのでしょう。しかも女性という立場では、出来ることは限られます。その一つが、いざという時のための政治資金、あるいは軍資金を蓄積することだったのでしょう。ところが、その実子義尚は、長じて母と反目し、かつ若死にします。その後も、富子は、幕府、および日野家を、事実上支配していきます。力の背景に財力があったとも言えるのでしょう。その権力への執着もさることながら、蓄財によって得た財力を背景に権勢を振るうという極めて稀なケースだと思います。(写真:宝鏡寺蔵日野富子座像 出典:bunshun.jp)