2021年6月11日金曜日

悪女

京都の人たちが”先の戦”と言えば、応仁の乱のこと、というのは有名な話です。千年の都の時間の捉え方の大きさ、という話でもあります。その後、洛中で戦闘がなかったわけではありませんが、応仁の乱ほどの戦はありませんでした。11年に及んだ応仁の乱は、京都をほぼ壊滅させました。日本の歴史の分水嶺とも言われる応仁の乱ですが、皆、名前は知っていても、なかなか概要までは説明できない、という不思議な特徴があります。その主な理由は、戦の原因が複層的で分かりにくいこと、勝敗がつかず政権も変わっていないこと、という2点に尽きるのでしょう。さらに言えば、華々しい勇者も、大規模な戦闘もなく、後の世で人気狂言の題材として取り上げられることがなかったため、人々の記憶に残らなかったとも言えます。

2016年に、呉座勇一が「応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱」を中公新書から出すと、分かりやすいと評判になり、歴史書としては異例のベストセラーになり、以降、出版界の日本史ブームが起きました。他の歴史書よりは分かりやすかったのかもしれませんが、題材そのものがグダグダとしているので、一気に読めるほど明解なものでもありませんでした。そもそもは、三管領家の一つ畠山氏の家督争いが起こり、もともと不仲だった山名宗全と細川勝元が介入します。そこに足利将軍家のお家騒動が重なり、戦は複雑な様相を呈します。全国各地の有力な武家も巻き込まれますが、彼らの動機としては領土的野心が大きく、戦はさらに複雑な構造になり、長引くことになりました。

応仁の乱に関係する人物のなかで、最も名が知られているのは、ひょっとすると日野富子かも知れません。富子は、室町幕府8代将軍足利義政の正室でした。生家は、藤原北家の流れを組む日野家であり、3代将軍義満以降、将軍の正室は日野家から嫁いでいます。また、富子は、 北条政子、 淀君と並び、日本三大悪女の一人とも言われます。もちろん、基準など明確ではありませんが、少なくとも歴史に大きな影響を与えたという点は共通しています。女だてらに、政治に口を出した、という家父長的価値観から、悪女とされているのかもしれません。 富子には男子が産まれず、将軍義政は、実弟を環俗させ、後継者とします。ところが、翌年、富子に男子が誕生。富子は、我が子を将軍にすべく暗躍します。これが、応仁の乱を一層複雑にしました。 

富子を悪女とする理由は、他にもあります。20歳の時に男子を出産しますが、その日のうちに亡くなります。富子は、嫡男死去を、足利義政の乳母にして寵愛を受ける今参局(いままいりのつぼね)の呪詛のせいだとして、琵琶湖の沖ノ島に流罪とします。そして、今参局は、流される途中で刺客に襲撃され、自害しています。刺客を差し向けたのは、富子とも、富子の祖母にして義政の母でもある日野重子だとも言われます。富子は、義政の4人の側室をも追放しています。さらに、富子には、守銭奴としての悪評がありました。東軍側にも、西軍側にも、軍資金を貸し出し、さらに米の投機でも荒稼ぎし、結構な財産を築いたようです。また、応仁の乱の後、京の入り口数ヶ所に関所が設けられ、神社仏閣の再建のために通行料が徴収されていました。富子は、これを自らの懐に入れていました。さすがに、これは民衆の怒りを買い、一揆が起きています。

もちろん、富子は、贅沢をするために蓄財に走ったのではありません。 将軍の御台所として、日野家の娘として、贅を極めた生活を送っていたはずです。富子は、戦乱の世にあって、実子を将軍にするために、できることは何でもする覚悟だったのでしょう。しかも女性という立場では、出来ることは限られます。その一つが、いざという時のための政治資金、あるいは軍資金を蓄積することだったのでしょう。ところが、その実子義尚は、長じて母と反目し、かつ若死にします。その後も、富子は、幕府、および日野家を、事実上支配していきます。力の背景に財力があったとも言えるのでしょう。その権力への執着もさることながら、蓄財によって得た財力を背景に権勢を振るうという極めて稀なケースだと思います。(写真:宝鏡寺蔵日野富子座像 出典:bunshun.jp)

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