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長い髪のユキ(1923) |
西洋では、14世紀後半に油絵具が発明されると、絵具を混ぜて多様な色彩を生み出すことが可能となり、表現の可能性が広がりました。対して日本画で用いる顔料は、混ぜ合わせることができないので、多くの色を用意する必要があります。現在、日本画で用いる顔料は、1万色とも2万色とも言われ、画家たちは、常に1~2千種類を手元に置いているようです。日本産業規格、いわゆるJISが定める慣用色名は296色、源氏物語に登場する色は368色、これだけでもすごいと思うのですが、表現者にとっては十分ではなく、新たな色が追及されるわけです。デジタルの世界では、三原色を用いたRGBによって無限に色の創造が可能ですが、顔料となれば、実に大変な作業なのだと思います。藤田は、西洋画の世界に、日本画で用いる面相筆を使った線描、そして日本画の顔料の発想で作った乳白色を持ち込みました。
藤田嗣二は、1886年、後に軍医のトップ陸軍軍医総監となる父の元、東京に生まれます。東京美術学校、後の東京芸大に学びますが、黒田清輝等の写実主義一辺倒の学風に合わず、成績不振だったようです。27歳で渡仏、モンパルナスに居を構え、世界中からパリに集まったピカソ、モディリアニ、スーチン、キスリング等々のボヘミアンたちと交流します。その中から生まれた流れがエコール・ド・パリであり、藤田は、その代表的な作家として名を成しました。1931年には、個展開催のため、南米に渡ります。南米の色彩に魅了された藤田は、2年近くを現地で過ごし、画風にも鮮やかな色が現れます。その後、日本に戻った藤田は、日中戦争のなか従軍画家として中国に渡ります。一度、パリに戻りますが、世界大戦勃発とともに帰国、再び従軍画家として活動し、陸軍美術協会理事長にもなっています。
戦後、藤田は戦争協力者の烙印を押され、批判を浴びることになります。陸軍が藤田の画風を好むわけもなく、軍医総監の嫡男にして高名であることを利用しただけなのでしょう。また、藤田の戦争画も、国威発揚とは程遠いものだと思います。しかし、時代に流された藤田への批判を否定することもできません。藤田は逃げるように日本を離れ、1949年、フランスに戻ります。しかし、エコール・ド・パリの時代は遥か彼方に過ぎ去り、戦争協力者という烙印も影響してか、亡霊扱いされたようです。それでも支援者の助けもあり、挿絵本や少女像のシリーズで独自の画風を展開し、1968年、スイスで亡くなっています。藤田の「「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」という言葉は、あまりにも有名です。藤田は、没後に再評価されたわけですが、生前、これほど母国で認められなかった画家もいないと思います。
藤田が日本で評価されなかったのは、戦争の落とした影ゆえ、とも言えます。軍国主義の時代がなければ、エコール・ド・パリの流れが、日本画壇そものを変えていた可能性があります。藤田の国内での評価も違ったはずです。戦争がなければ、従軍画家のスケープゴートにされることもなかったわけです。藤田のみならず、戦争がゆえに、その才能が評価されなかった作家は多くいるのでしょう。その多くは発表の機会どころか、制作の機会をも奪われた人々です。それに比べれば、国内での評価は不満でも、パリで高い評価を得たわけですから、藤田は幸せだと思います。(写真出典:atpress.ne.jp)