2021年6月15日火曜日

カンダハ―

カンダハ―
中学生の頃、スキー場の最も高いところから、最も斜度の厳しい斜面を、滑降競技よろしく、猛スピードで駆け降りることが楽しくてしょうがない時期がありました。危険と言えば、かなり危険な遊びです。ある日、友人たちとワイワイ滑っているところを、中学の体育教師に見つかり、スキーの基礎も知らないガキの遊びは、本人だけでなく、他人を巻き込む事故になりかねない、と大目玉を食らいました。そして、半ば強制的に、冬休みの3日間、その教師によるプライベート・レッスンを受けさせられました。レッスンは、緩斜面で、直滑降、斜滑降、プフルークボーゲンと、基礎中の基礎から始まりました。山のてっぺんから滑降していた我々にとっては、バカバカしいレッスンでした。いわば、今更、あいうえおを何度も書かされるようなものです。

ところが、初日のレッスンが終わる頃には、皆、真剣に基礎練習を行うようになっていました。スキーというスポーツが、加重(エッジング)と抜重で構成されているという理屈が分かったからです。それまでは、感覚的に滑っていただけでした。理屈が分かると、加重と抜重によって、自在にスキーを操れることが面白くなったわけです。3日目には、皆で、完璧に同じシュプールを描いて滑降することができ、他のスキー客から拍手までもらえました。それまでは危険な滑降で皆から嫌われていた不良少年たちが、見事に更生したというわけです。高校時代のスキーは、ゲレンデではエレガントに綺麗なシュプールを描くこと、急斜面ではこぶに逆らわず膝の屈伸で安定的に滑ることに集中しました。そうすべきだったからではなく、それが楽しかったからです。

その頃、スキー用具も大きく変わり始めていました。グラスファイバーのスキー板、プラスティック製のバックル式スキー・ブーツ、そしてステップ・イン式のビンディング等です。ステップ・イン以外は、10年以上前から存在し、競技者が使っていましたが、この頃から一般化したように記憶します。その頃まで、板は合板が主流で、靴はヒモ式の革靴が一般的だったように思います。ビンディングは、ワイヤーで靴の踵を固定し、靴の先でレバーを倒してワイヤーを固定する、いわゆる”カンダハ―”が一般的でした。カンダハ―は、1929年に開発されていますので、随分と長命だったわけです。カンダハ―という名称は、当時のアルペン・スキーのレース名にちなんだとされます。Kandaharとは、アフガニスタンのカンダハールのことです。アフガンでスキーのレースなどあり得ません。実に不思議な話です。

19世紀、大英帝国とロシア帝国は、中央アジアの覇権を争っていました。その一環として、英国は、インドからアフガンに2度侵攻し、最終的には保護国化しています。第二次アフガン戦争の際、包囲されたカンダハールの英国軍を救出るため、ロバーツ将軍は、1万の将兵を引き連れ、カブールを出発します。ロバーツは、灼熱の乾燥地帯約360マイルを20日間で走破し、見事、カンダハール救出に成功します。大英帝国は、この偉業を称え、ロバーツをナイトの位に叙し、”カンダハールのロバーツ卿”という称号を与えました。1903年、ロバーツは、アルペン・スポーツ・クラブ副会長に就任し、1911年に行われた世界初のアルペン・レースに優勝カップを寄贈します。レースは、”カンダハールのロバーツ卿”チャレンジ・カップと命名され、略してカンダハ―・カップと呼ばれます。こうして、アフガンとアルペンが結びつき、ビンディングの名前がカンダハ―になったというわけです。

中学生当時、私は、親父のお古のニシザワの合板スキーに乗り、ヒモ式の靴を履いていました。ただ、ビンディングだけは、チロリアの最新式ステップ・インでした。実は、買ったのではなく、スキー用品の新作展示会に行った際、抽選会で当てたものでした。1等賞のクナイスルのグラスファイバー・スキーが欲しくて参加した抽選会だったのですが、さすがにこれは当たりませんでした。思えば、その頃は、72年の札幌冬季オリンピック開催を控え、スキー・ブームだったのかもしれません。(写真出典:skitop.jp)

マクア渓谷