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箸墓古墳(航空3D測量図) |
3世紀後半から5世紀あたりまでは、大和朝廷ではなく「ヤマト王権」と呼ぶことが一般的になりました。朝廷とは、天子が朝政・朝義を行うところであり、官僚機構を備えた中央集権的政権を意味するとされます。大和朝廷が形を成すの6世紀頃からであり、それまでは小国連合の盟主として王を名乗っていました。さらに、大和は、後の命名であり、かつては倭であったという説が有力であること等から、「ヤマト王権」という呼び方に変わりました。魏志倭人伝には、邪馬台国以外にも、多くの倭の国が記載され、「後漢書倭伝」にも「倭国大いに乱れ」という記載もあり、小国が対立する状態にあったと思われます。そのなかで、畿内のヤマトが勢力を拡大していくわけです。気象に関する調査から、3世紀は雨が多く、洪水が頻発していたようです。ところが、奈良盆地は、地形的に洪水が起こらず、結果、他国よりも豊かな国だったと想定されます。
そのヤマト王権が築いた最初の王宮が、奈良県桜井市にある纒向(まきむく)遺跡ではないか、とされています。まだ、調査は、ごく数パーセントにすぎませんが、既に建築遺構も発掘されており、かなり大型の遺跡だと想定されています。また、域内に最初の前方後円墳とされる箸墓(はしはか)古墳もありますが、これも以前の古墳に比べ、突然大型になっています。箸墓古墳は、日本書紀によれば、第7代孝霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)の陵墓です。姫は三輪山の神の妻となったが、神は夜にしか来ず、姫が明朝に姿を見たいと願うと、神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れます。姫が驚き叫んだため、神は恥じて三輪山に去り、姫は、それを悔いて腰を落とします。その際、箸が陰部を突き、姫は死にます。墓は「箸墓」と呼ばれ、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと記載されています。
しかし、皇女の墓としては、異様に大きすぎるという見方があります。各地で作れた埴輪が奉納されていること、まったく同じ形状で縮尺だけが異なる古墳が全国にあること等から、ヤマト王権を確立したとされる崇神天皇の陵墓ではないかという説があります。箸墓古墳は、永らく宮内庁が立入禁止にしていましたが、ようやく調査が始まるようです。結果が待たれるところです。そして、箸墓には、卑弥呼、ないしは後を継いだ臺與(とよ)の墳墓ではないかとする説もあります。ただ、魏志倭人伝に記載される邪馬台国の所在地や卑弥呼の墳墓の形状とは違い過ぎるとの批判があります。かつて古代史と言えば、邪馬台国と卑弥呼一辺倒でしたが、最近は変わりつつあるように思います。新しいネタがないなかでは推理合戦も鎮静化せざるを得ません。替わって脚光を浴びているのが、縄文とヤマト王権だと思います。なにせ新発見が続いていますから。
現在確認されている古墳・横穴は、全国に16万基、うち前方後円墳は、4,800基と聞きます。航空写真による分析が進み、急速に発見が増えているようです。箸墓古墳と縮尺は異なっても完璧に同形な前方後円墳が数十基、以降も各天皇の陵墓と完全に同形の前方後円墳が全国に広がっているようです。つまり、王権ないしは朝廷が、各地の王、豪族に、設計図を与えていたわけです。臣下の証として、土木技術を伝授したということなのでしょう。前方後円墳がないのは、北海道、青森、秋田、沖縄だけです。要は、7~8世紀時点で、大和朝廷の支配が及んでいなかったところというわけです。(写真出典:nikkei.com)