アルバム名:Buena Vista Social Club (1997) アーティスト名:ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ
ライ・クーダーは、ギタリストとしては、スライド・ギターの使い手として知られ、フィンガー・ピックから独特の音を繰り出す名手です。映画音楽を多く手がけたことでも知られます。さらに、ワールド・ミュージックに関する造詣も深く、その分野での最大の功績は、 間違いなく「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」ということになります。1996年、ライ・クーダーは、キューバに赴き、忘れられていた老ミュージシャンたちと「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」を録音します。アルバムは、高く評価され、グラミー賞を獲得します。1999年には、ヴィム・ヴェンダース監督によるドキュメンタリー映画も公開され、ハバナの街の様子とともに、世界中の人々を魅了しました。キューバを代表する音楽”ソン”は、19世紀、東部のサンティアーゴ・デ・クーバで誕生したとされます。ジャズやサンバと同様、西アフリカ起源の音楽とヨーロッパの舞曲が出会い、生まれます。その後、交易港ハバナで、コンガ、マンボ、チャチャチャ、ルンバ等、多様な発展をしました。また、キューバからヨーロッパへもダンス音楽が伝播していきます。特に”ハバネラ”は、欧米で流行し、ビゼーの”カルメン”でも使われます。さらに、フラメンコとハバネラが融合し、アルゼンチンへ渡り、アルゼンチン・タンゴとなります。20世紀になると、キューバ音楽は、ニューヨークで大流行します。ルンバと総称され、多くのミュージシャンがNYへ渡ります。当時、勃興期にあったハリウッド映画でも多用され、キューバ音楽は世界へと広がっていきました。
キューバ音楽流行の背景は、強いリズムのダンス曲として魅力的だったこと、トロピカルなイメージが人を惹きつけたこと、そして、ハバナ港の往来の多さやアメリカへの近さがあったのでしょう。ハバナは、アメリカ人の大好きなリゾートへと変貌していき、ナイトクラブ、ダンス・ホール、カジノ等で、夜毎、キューバ音楽が演奏されます。しかし、1959年、カストロが革命政府を樹立すると、状況は一変します。アメリカとの関係は悪化、経済封鎖が行われます。キューバ音楽も、鳴りを潜めていきます。アメリカと結びつくことで発展したキューバ音楽の悲劇でもあります。多くのミュージシャンが演奏の場を失い、ハバナの底辺へと沈んでいきました。かつて大活躍したコンパイ・セグンドは葉巻職人に、イブライム・フェレールは靴磨きへと身をやつしていました.
しかし、世界は、キューバ音楽を忘れていませんでした。特にミューバ難民の多いNYやフロリダでは、ソンにロックの要素も加えたサルサが生まれています。キューバ音楽のポテンシャルの高さを示す例だと思います。ライ・クーダーは、そのことをよく分かっていたわけです。彼が、ハバナで口づてで集めた往年のスターたちも、ソンの真髄を忘れていませんでした。アルバムは大ヒットし、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブは、世界中をツアーし、多くの人々にソンの魅力を伝えました。特に、NYのカーネギー・ホールのライブは、ソンの魅力と彼らの実力の高さを感じさせます。長くつらい旅路を思えば、彼らにとってもカーネギー・ホールは感慨ひとしおのライブだったと思います。その模様は、2007年にリリースされたCDで楽しめます。熱量においては、97年のレコーディングを超えているように思えます。
2016年には、「アディオス・ツアー」を行い、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブは、活動を終えました。主要メンバーが亡くなり、残ったメンバーも超高齢化していました。ツアーは、ドキュメンタリー映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス」として公開されました。思わず目頭が熱くなりました。(写真出典:amazon.co.jp)