2021年6月1日火曜日

砂漠の女王

ガートルード・ベルは、20世紀初頭に活躍した探検家、登山家、考古学者にして外交にも関わった英国女性です。特に中東のベドウィン族の専門家であり、わずかな従者とともに砂漠を旅し、ベドウィンの族長たちとも親交を持ち、「砂漠の女王」と呼ばれました。その豊富な知識・情報は、英国の中東政策決定に大きな影響を与えました。「アラビアのロレンス」ことT.E.ロレンス中佐同様、オスマン・トルコ崩壊後のアラブ人国家樹立を主張したことでも知られます。また、英国政府が主導したイラク成立には、彼女の案が取り入れられています。

ガートルード・ベルの生家は、鉄とアルカリで財を成した英国有数の資産家でした。幼い時から活発で頭脳明晰だったガートルードは、17歳でオックスフォード大学に学びます。女性としては、極めて異例のことだったようです。わずか2年で、かつ優秀な成績で卒業していますが、学位は得ていません。当時は、女性に対して学位を授与する制度がなかったのだそうです。その後、社交界デビューしますが、高学歴が敬遠されたのか、求婚者は現れませんでした。彼女は、義理の伯父が公使を勤めるブカレスト、後にテヘランに逗留します。彼女の旅の始まりです。テヘランでは、若い外交官と恋に落ちますが、結婚は認められませんでした。その後、求婚者は事故死し、彼女の心に深い傷を残したようです。

全てを忘れるためか、ガートルードは世界を旅し、アルプスに登り、数か国語をマスターし、考古学に没頭します。2度行った世界一周の旅の途中、日本にも立ち寄っています。アルプスでは、未踏峰を制覇し、彼女の名が山名に残ります。考古学では、シュメール期から続いた交易都市ムンバカの遺跡も発見しています。しかし、最大の功績は、6度に渡るアラビア横断です。対オスマン、および部族間の争いが絶えない危険地帯であり、英国軍からも中止圧力がかかり、各部族からも警戒されるなかでの砂漠の旅です。しかし、ほどなく、ベドウィンをリスペクトする勇敢な女性の話は、アラビア中に伝わり、各部族も敬意を持って彼女を受け入れるようになります。こうして、厚いヴェールに包まれていたアラビア奥地に関する情報が明らかになっていきます。

ガートルードが、イラク建国に際して、多数派のシーアを少数派のスンニーが支配し、クルド支配地域も含めて一国とするという、今に続く禍根のタネを蒔いたのは何故か、という議論があります。。多数派を少数派に支配させる方式は、植民地支配の常道でもあります。加えて、彼女が過信したと思われるのが、イラクの王室に据えられたハーシム家が誇る預言者ムハンマドの血統です。マッカのハーシム家は、預言者ムハンマドの娘ファーティマと伯父のアブー・ターリブ夫妻の子孫としてイスラム社会の尊敬を集めてきました。イラクが絶海の孤島であるなら、ハーシム王家の存在だけで国はまとまったかも知れませんが、シーア派は、イラン・シーア派と一体であり、クルドは、トルコ、イラン、シリアに跨るクルディスタンが本来の国です。つまり、英国が勝手に引いた国境は、そもそも意味のないものであり、支配体制の問題以前に、禍のタネが存在したわけです。パレスティナ問題と同様、大英帝国の罪としか言いようがありません。

ヴェルナー・ヘルツォーク監督は、2015年に「アラビアの女王 愛と宿命の日々(原題:Queen of the Desert)」としてガートルードの生涯を映画化しています。美しい砂漠の映像と端正な映画技法が見事な映画でした。しかし、対とも言える「アラビアのロレンス」ほどのヒットはしていません。当時、ロレンスよりもガートルードの方が遥かに高位で高名でしたが、その後の知名度には大きな差があります。また、派手な戦闘シーンも、ロレンスのジレンマのようなものもない映画は、地味な展開にならざるを得ません。とは言え、ガートルードがアラビアに残した影響は、ロレンスとは比べものにならないほど大きいと思います。(写真:映画「アラビアの女王」出典:amazon.co.jp)

マクア渓谷