2021年5月31日月曜日

純連

15~16年前、久々に札幌へ出張し、仲間たちと宴会をして、真夜中近くにホテルへ戻りました。空腹だったわけではないのですが、無性にラーメンが食べたくなり、いつも行く店ではなく、新しい人気店を試してみようと、フロントで聞いた店に入りました。驚きました。豚骨醤油の店でした。札幌で、わざわざ豚骨醤油はないだろうと、多少腹立たしくも思いました。ただ、冷静に考えてみれば、観光客のニーズと地元の人たちのニーズは同じではないわけです。札幌の若い人たちだって、全国的に流行するこってり系を食べたいわけです。豚骨醤油を紹介されたことに、ムッときたわけですが、実は、ラーメン自体のレベルは高く、結構、良い味でした。 

札幌のラーメンの発祥は、北大正門前にあった「竹家食堂」だとされます。ラーメンと言う言葉も、ここで生まれたという説もあります。しかし、それは札幌におけるラーメンの歴史であって、札幌ラーメンの誕生とは異なります。札幌ラーメンは、戦争直後、狸小路に出店した松田勘七の「龍鳳」、西山仙治の「だるま軒」という2台の屋台から始まる、というのが定説です。ちなみに、西山仙治は、その後、製麺に特化し、西山製麺を起こしています。そして、札幌ラーメンは、1959年、「味の三平」の大宮守人が7~8年かけ開発したという味噌ラーメンの登場で確立されました。翌年、「暮らしの手帳」の花森安治が週刊朝日に書いた「ラーメンの街札幌」という記事がブームを巻き起こし、味噌を中心とした札幌ラーメンというブランドが定着しました。

大宮の味噌味をベースに、多くの店が味噌ラーメンを出すなか、64年、村中明子が中の島に「純連(すみれ)」を出店します。その画期的な味噌ラーメンは、口コミで広がっていきます。ただ、中心部から離れていたこともあり、はじめて私が食べたのは、85年、中島公園に移転後のことでした。衝撃的でした。コクのある複雑な味わいは、三平スタイルとは全く違うものでした。伝統的な味噌ラーメンは、今でも大好物です。ただ、この革命的なラーメンは、まったく別ジャンルとして虜になりました。その後、長男が継いで澄川に出店したのが87年。翌88年には三男が中島公園に「すみれ」をオープンします。もともと村中明子の店は”純連”と書いて”すみれ”と読み仮名を振っていました。暖簾の読み仮名が薄れ、客たちが”じゅんれん”と呼び始めたので、そのまま店名にしたと言います。三男は、読みを復活させたわけですが、味は焦がし味噌という進化を遂げていました。

2000年、すみれで7年修行した奥雅彦が独立し、美園に「彩未(さいみ)」を開くと、瞬く間に札幌ナンバーワンに躍り出ます。これまた都心部から離れているので、出張のついででは、なかなか行けなくて、10年ほど前に初めて行きました。純連系ではあるものの、野菜の甘味を活かしたやさしいスープが時代を感じさせました。近年、札幌のラーメンの多様化が、相当に進んでいるようですが、札幌ラーメンの背骨を構成するのは、三平・純連・すみれ・彩未だと思います。もし札幌にラーメン博物館を作るなら、玄関前に置くべきは、三平の大宮守人、純連の村中明子、この二人の銅像だと思います。ちなみに、個人的なベストは、すみれです。札幌に行った際には、無理してでも行くようにしています。

札幌ラーメンの歴史を変えたのが、女性だったという点は、とても興味深いと思います。三平をはじめとする、豚骨、ラード、味噌、にんにくといった男っぽい札幌ラーメンを、濃厚でありながら、繊細なコクとうま味の世界に変えることができたのは、女性ならではの感性だったのではないかと思います。(写真:初代純連 出典:junren.co.jp)

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