チャン・レ・スアンは、1924年、フランス支配下のハノイで、上流階級の子女として生まれます。父はフランスに学んだ弁護士、母はバオ・ダイ帝の従姉妹という貴族でした。レ・スアンは、徹底的にフランス人としての教育を受けます。ただ、それは、彼女に、自分がフランス人ではないことを知らしめたという面も持っていたようです。彼女は、母が勧める結婚相手立ちを蹴って、フエの貴族ゴ・ディン・ヌーと結婚します。若いレ・スアンは、家を出ることが最優先だったと語っているようです。1954年、ヴェトミンがフランスを追い出すと、彼女は、親フランスの上流階級として軟禁、迫害されます。この経験が、彼女の徹底的な反共姿勢の根本にあるとも言われます。
同じく強硬な反共主義者である義兄のゴ・ディン・ジエムは、バオ・ダイ帝の内相を務め、1954年には、バオ・ダイを首班とするフランスの傀儡政権ヴェトナム国の首相に就任します。翌年、不正な選挙によってバオ・ダイを退任させ、ヴェトナム共和国を建国し、大統領に就任します。ヴェトミンとフランスを中心とした停戦協定であるジュネーブ協定では、一旦、17度線以北はヴェトミン、南はフランス支配としたうえで、56年に選挙を実施して統一国家をつくる予定でした。しかし、アメリカの後ろ盾を得たゴ・ディン・ジエムは、これを無視し、北ヴェトナムとの対決姿勢を鮮明にします。東西冷戦下、中国の支援を受ける北ヴェトナム、アメリカの支援を受ける南ヴェトナムという、朝鮮戦争に続く代理戦争の構図が生まれたわけです。
とは言え、インドシナにおける共産勢力拡大を阻止したいジョン・F・ケネディ、そしてキリスト教をベースとした新たな王朝を築きたいゴ・ディン・ジエムとでは、その思惑にズレがありました。アメリカから、北と戦うことだけを期待されたゴ・ディン・ジエムですが、ゴ・ディン・ヌーを使って、国内の反対派を駆逐し、独裁強化に血道を上げます。ケネディ大統領はいらだち、ついにヴェトナムへの兵力投入を決定します。両者のズレの上に咲いたあだ花がマダム・ヌーでした。渡米して、積極的にマスコミへに登場した彼女は、権力欲をむき出しに、米軍の支援を求めつつ、内政干渉を拒否します。ゴ・ディン・ジエム体制の象徴とも言える彼女に対し、ケネディ政権は激怒します。それも災いしてか、63年、CIAのバックアップを受けた軍事クーデターが発生、ゴ・ディン・ジエムとゴ・ディン・ヌー兄弟は射殺され、マダム・ヌーは、フランスへ亡命します。
CIAによるクーデター支援を黙認したケネディでしたが、ゴ・ディン・ジエムの死にはショックを受けたと言われます。クーデター直後、ゴ・ディン・ジエムは自殺したという報告が届きます。ケネディとジエムは、ともにカトリック信者です。カトリックが自殺を厳に禁じていることから、ケネディは衝撃を受けたのだ、と言われています。それも事実なのでしょうが、実は、ホワイトハウスが恐れたのは、アメリカは用済みとなった同盟国の元首を殺す、という評判が広がることでした。アメリカ政府を信用する人間がいなくなる恐れがあります。その後も、アメリカは、いくつかの国のクーデターに関与しますが、敗れた元首を救出・保護、ないしはその努力をしています。フィリピンのマルコスも、その実例です。ちなみに、マダム・ヌーは、その後、帰国を拒否され続け、故郷を見ることなくローマで客死しています。87歳でした。(写真出典:pinterest.com)