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志乃多寿司総本店のいなり |
いなり寿司の発祥は定かではありません。資料への初出は、江戸末期の「守貞謾稿」であり、天保前から存在したこと、尾張名古屋等にもあることが記載されています。発祥とされることが多いのは、三河の豊川稲荷です。ただ、豊川稲荷のいなり寿司も、天保の頃からとされていますので、有名ではあっても、発祥ではないように思えます。商売繁盛の御利益が大層あるとして大人気の豊川稲荷ですが、神社ではありません。れっきとした曹洞宗の寺院です。境内に鎮守として祀られている吒枳尼天が稲穂を担いでいることから豊川稲荷と呼ばれます。ちなみに参道で最も古い茶屋のいなり寿司は「いなほ寿司」と称しています。
鮨は、稲作と同じくらいに歴史が古く、魚の発酵食品である”なれ鮨”に始まり。江戸初期に”はや鮨”へと進化し、現在の姿になります。いなり寿司とはや鮨との共通点は、酢飯だけであり、いなりには魚のさの字もありません。油揚げを、なにかの魚に見立てたとも思えません。かんぴょう巻等も同様に魚を使いませんが、海苔を巻くことで、多少、海の匂いを残しています。いなり寿司は、どこの誰が考えたのか不明で、寿司としては突然変異種の類で、それどころか寿司と呼ぶことすらためらわれる謎の食べ物です。とは言え、うまいわけです。江戸では大人気となり、棒手振から始まり、屋台、店舗までできたようです。安くて、うまくて、食べやすい食品が、大人気となることは当然とも言えます。
油揚げの起源は、室町時代の精進料理にあると言われます。工夫を重ね、豆腐を揚げて肉に見立てたようです。袋状になるので、山菜などを入れた焚き物は、早くからあったと思われます。いなり寿司の起源は、おそらく余った酢飯を詰めてみたら、意外とうまかった、といったことなのでしょう。庶民の知恵ゆえ、発祥も起源もはっきりしないわけです。いなり寿司という名前も、単純な発想から来ていると思われます。稲荷神の使いは狐であり、狐の好物が揚げとされることから、名づけられたのでしょう。本当のところ、狐が揚げを好むわけはありません。本来の好物である鼠を捧げようとすれば、殺傷を伴うので憚られ、肉の見立てである揚げが使われたのでしょう。ということであれば、いなり寿司は、いずれにしても精進料理が大本だったということになります。
天保の改革では、寿司も贅沢品とされ、禁止の憂き目にあいます。ところが、値段が安かったからか、似非寿司だったからか、いなり寿司は、禁止されていません。これが、いなり寿司の普及に貢献したようです。また、天保の改革では、歌舞伎が江戸から所払いとなります。幕間の弁当として人気のあったいなり寿司が、江戸から地方へと広がるきっかけにもなったようです。ちなみに、いなり寿司と太巻き、江戸期はいなり寿司とかんぴょう巻だったようですが、このセットは「助六」と呼ばれます。これは、歌舞伎十八番「助六由縁江戸桜」の助六の愛人の名が”揚巻”であることにちなんで名づけられたと言われています。(写真出典:tabilist.net)