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チャパクィディック事件の現場 |
信濃川河川敷問題は、東京地検によって捜査されましたが、結果、ファミリー企業の幹部一人が宅建業法違反を問われただけでした。田中角栄にとっては、この問題よりも、佐藤昭子との関係が暴露されたことの方がダメージが大きく、辞任に至ったともされます。小選挙区制以降の与党党首は、この程度のスキャンダルでは辞任しないでしょうね。答えなければ済むようですから。総辞職は、田中角栄の政治家としての矜持を感じさせるとも言えます。当時の政治記者たちにとって、報道された二つの事案は周知のことであったようです。それを報道しない記者たちの姿勢、政治家との癒着ぶりも問題となりました。ひょっとすると、政治感性の鋭い田中角栄は、報道された事案の内容よりも、時代の変化、国民の変化を読み取り、辞任したのかも知れません。
かつて、政治に金はつきもの、という認識がありました。ただし、その金は、政治家個人の懐に入るのではなく、政党運営や選挙対策に投じられました。また、政治家の愛人に関しても、ことさらに追及されることはありませんでした。戦前の家父長制の影響が色濃く残っていたわけです。これは、日本に限らず、アメリカでも同様でした。例えば、ジョン・F・ケネディ大統領のプレイボーイぶりは有名で、政治記者たちは、皆知っていたようです。特にマリリン・モンローとの関係は有名でした。しかし、それが大きな変化を見せたのが、1969年にエドワード・ケネディが起こしたチャパクィディック事件だったと言われます。63年には長兄ジョンが暗殺され、前年には大統領選の最中に次兄ロバートも暗殺され、残るエドワードに大統領の期待がかけられていました。しかし、この事件で、その道は完全に断たれました。
1969年7月、マサチューセッツ州ナンタケット湾にある超高級別荘地チャパクィディック島でのこと、エドワードは、若い女性と二人で車に乗り込み、パーティを抜け出します。ケネディ家の別荘のあるマーサズ・ヴィンヤード島へ渡る小さな橋で、車は海に転落、脱出したエドワードは、女性と車を残して、パーティ会場へ戻ります。友人たちと女性を探しますが、見つけられず、翌朝、車を発見した近隣住民が警察に通報します。若い女性との不倫、飲酒運転、薬物使用の疑い、死体遺棄の疑い、隠ぺい工作の疑い、事件は最悪の展開を見せ、世間は大騒ぎとなります。多少のスキャンダルは大目に見てくれていた政治記者たちの手には余る社会問題になっていました。ケネディ家の威光もあり、エドワードは、辛うじて上院議員を続けますが、大統領候補への扉は、完全に閉じられました。
1968年は、「動乱の1968」と言われるほど、社会や政治の構造的変化が世界的に進んだ年でした。事象だけを見れば、学生運動、反戦闘争、ブラック・パワー、プラハの春、文化大革命、キング牧師やロバート・ケネディの暗殺、エル・アル航空ハイジャック、テト攻勢、ビアフラ戦争等々が起こっています。その中で、日本だけは、高度成長を維持し、欧米とは多少異なる動きにあったように思えます。ただ、その日本も、72年には経済成長が止まり、73年にはオイル・ショックと狂乱物価に見舞われます。時期に多少のズレはあるにしても、この時代、古い秩序体制にヒビが入ったことは間違いなく、ある意味、その象徴が、チャパクィディック事件であり、田中金脈問題だったのでしょう。(写真出典:usatody.com)