私の印象としては、87年に米国へ赴任した頃までは、そういう文化は続いていたように記憶します。ところが、、米国から帰国した92年には、無くなっていました。私が浦島太郎化し、歳をとったのか、世間に疎くなったのか、と思い、周囲に聞いてみると、皆、最近は無くなったね、と言っていました。私が米国に駐在していた時期、日本ではバブルが膨れ上がり、崩壊していました。バブル期、華々しく外で飲むことが増え、貧乏くさい家飲みが消滅したのか、とも思いました。多くの人は、原因はバブルではなく、若い人たちが濃い人間関係を嫌がるようになったからだ、と言っていました。言われてみれば、社員旅行も無くなっていました。やはり、若い人たちが、行きたがらない、と言われていました。
冠婚葬祭でも、同じような傾向がありました。例えば、かつて結婚式は、仲人を立てることが一般的でした。会社では、部長クラスが頼まれ仲人をしていました。私も、上司に仲人をお願いしました。私も頼まれ、NYから戻った後の数年間に、3度ばかり引き受けました。たまたま部長の奥様の体調が優れず、私が代役を勤めた格好でした。3度目の仲人を終えた後、会社の廊下で、さる役員に呼び止められ、お前、仲人やったんだってな、今時珍しいね、と言われました。調べてみると、その頃ですら、仲人をたてた結婚式は、1割程度までに減っていました。仲人のいない結婚式に、主賓として招かれ、何度かスピーチをしたことはあります。ただ、最近、上司が招かれることも少ないようです。近頃は、葬儀も家族葬が主流となり、会社関係者が通夜に押し寄せる姿も見かけなくなりました。
豊かになった日本で生まれ育った世代は、欧米的な個人主義になりつつあるという説もあります。滅私奉公で高度成長期を戦った先輩たちや、その薫陶を受けて育った私たちの世代とは異なり、個人が優先されるようになったというのは理解できます。武家社会の文化風土、挙国一致体制の呪縛から解き放たれるのは、それはそれで理解できますし、意味のあることだと思います。しかし、世代ギャップや個人主義の問題だけではないように思えます。少なくとも、個人主義の国アメリカでは、ディナーやBBQに、近所や会社の友人を招く習慣があり、ブロック・パーティ等も行われています。実は、日本の社会の変化の背景には、社会が方向性を失ったことが、深く関係しているのではないか、と考えています。
企業は、現代版の村落共同体だと思います。村落共同体は、生産における協業、一部生産手段の共有、あるいは私有財産の防衛といった目的のために団結します。個人の自由は制約を受けますが、家族主義が、共同体のメリットを目に見えるものにします。村社会を拡大していけば、それが日本という社会になり、以和爲貴を信条とする国家になります。大きな組織は、その効用が見えにくくなりますので、目標や方向性を共有することで組織を維持します。現代にあって、企業は、依然として、生産手段を共有する者で構成されています。ただ、国としての日本は、共有すべき方向性や目標が見えにくくなり、社会は崩壊、孤立化が進む過程にあるようにも見えます。日本人は、今、この狭間にいるのでしょう。新興国アメリカは、国家の方向性や統一、つまり国体を保つために、様々な努力を行っています。小学生が、毎朝、国旗にむかってプレッジ(誓約)を唱和するのもその一例です。(写真出典:item.rakuten.co.jp)