2023年3月24日金曜日

白村江

その後の歴史を大きく変えた戦いというものがあります。いわば歴史の分水嶺です。日本では、太平洋戦争、戊辰戦争、関ヶ原の戦い、応仁の乱、源平合戦等があげられると思います。なかでも応仁の乱は、まさに歴史の分水嶺でした。戦前、京大の華とまで言われた東洋学の内藤湖南は、応仁の乱以前の歴史は学ぶ必要がない、応仁の乱以降の歴史は、我々の身体骨肉に直接触れた歴史である、とまで言っています。実は、白村江の戦いも、日本国を誕生させたという意味において、応仁の乱と同じくらい大きな分水嶺だったと思います。朝鮮半島の白村江で、唐・新羅に大敗した倭国は、唐の本土来襲を恐れます。部族社会だった倭国は、防衛強化のために中央集権化を図り、律令、都、防衛拠点等を整備、国名も日本と定めます。

4~7世紀の朝鮮半島は、高句麗・百済・新羅の三国が鼎立していました。7世紀前半、国内を統一した唐は、高句麗を攻めますが、難航します。一方、高句麗・百済は、連携して新羅に圧力をかけます。新羅は唐に援軍を求めます。高句麗を手に入れたい唐は、新羅と組んで、まずは百済を攻めます。結果、百済は滅亡し、高句麗は唐の支配下に、半島は新羅によって統一されます。百済滅亡時、百済の太子・豊璋は、人質として日本にいました。百済の残党を率いる将軍・鬼室福信は、ヤマト王権に、太子の返還と援軍を求めます。斉明天皇と中大兄皇子は、要請を受け入れ、半島への派兵を決めます。順調に戦いを進めた百済・倭軍でしたが、663年の白村江の戦いで、唐・新羅軍に大敗し、百済再興は成りませんでした。

百済・倭軍の敗因については、いくつかの要因が挙げられています。まずは、百済王となった豊璋が、意見の相違から鬼室福信を処刑したことで、軍が統制を失ったことが挙げられます。また、それによって百済・倭軍の進軍に遅れが生じ、倭の水軍800隻が百済の入り口・白村江に到着した際、既に唐の水軍170隻が待ち受けていました。船数に勝る倭の水軍でしたが、五月雨式に突撃を繰り返した結果、400隻を失う大敗を喫します。この戦術的無策も敗因とされます。仮に白村江の戦いを制したとしても、新羅・唐軍18万人に対して、倭の軍勢は42,000人であり、百済再興は難しかったと思われます。とすれば、白村江の戦いにおける最大の謎は、なぜヤマト王権は派兵したのかという点になると思われます。

紀元前から交流のあったとされる日本と朝鮮半島ですが、4世紀末から5世紀にかけては、ヤマト王権が、半島南部の伽耶・任那を支配下に置き、百済・新羅をも攻めます。百済は、ヤマト王権と国交を結びますが、新羅とは、以降、争いが絶えませんでした。6世紀前半、任那は新羅に占領され、ヤマト王権は、半島における権益を失います。以降も、ヤマト王権は、折に触れて、任那奪還のための兵を出しています。ヤマト王権は、製鉄をもって倭の部族社会を征したとも言われます。半島は砂鉄を産していました。その砂鉄を確保することは、王権にとって極めて重要だったのでしょう。百済再興に際して、中大兄皇子が行った判断も、その延長線上にあったものと考えられます。

また、唐との緩衝や入唐ルートとして百済を重視したという説もあります。また、百済を滅ぼした唐軍は、一旦、撤収しますが、その間隙を突こうとしたという説もあります。いずれにしても、敵は大唐であり、派兵は無謀な判断と言えます。注目すべき説として、中央集権化を進めたい中大兄皇子が、各地の豪族、特に九州の豪族たちを、勝ち目のない戦いに巻き込み、一掃しようとしたのではないか、というものがあります。蘇我一族を打ち、大化の改新を断行した中大兄皇子の政治センスと肝の太さを考えれば、頷ける話です。白村江の戦い以降の中央集権化は、唐との戦後交渉や捕虜交換、遣唐使の再開等といった外交と同時に行われています。迅速な諸政策の展開を見れば、納得性が高い説とも考えられます。その発想は、時空を超えて、豊臣秀吉、西郷隆盛ともつながっているようにも思えます。(写真出典:4travel.jp)

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