世界中で愛されるヒナゲシの原産地はヨーロッパとも言われますが、植物学的にははっきりしていないようです。2,500年前の古代エジプト遺跡からも種子が発見されており、エジプトでは当時から栽培されていたようです。原産地はともかくとして、ヒナゲシの栽培は、随分と古くから、世界中に広がっていたのでしょう。また、ヒナゲシは、虞美人草とも呼ばれます。紀元前202年、垓下の戦いにおいて、楚の項羽は、漢の劉邦に包囲され、討ち死にします。京劇「覇王別姫」では、その際、項羽の寵妃・虞美人は、足手まといになることを避けるため、自刎したという筋立てになっています。そして、虞美人の墓から美しい花が自生したので、人々は、これを虞美人草と呼んだとされます。
史上最強の武人という意味で覇王と呼ばれる項羽は、前漢の高祖となる劉邦とともに、秦を滅ぼした人です。しかし、両雄相並び立たず、覇権を巡って楚漢戦争が繰り広げられます。武力に勝る項羽に対して、劉邦は策略をもって戦います。最終的には、諸侯を味方につけた劉邦が、項羽軍を垓下に包囲します。四方を取り囲んだ劉邦軍は、項羽軍の戦意喪失をねらい、彼らの故郷である楚の歌を歌います。いわゆる四面楚歌の語源です。劉邦が楚を平定し、劉邦軍に楚兵が多く加わっているものと勘違いした項羽は、もはやこれまでと覚悟を決めます。項羽は、虞美人に「力は山を抜き 気は世を蓋う 時利あらずして 騅逝かず 騅の逝かざる 如何すべき 虞や虞や 若を如何せん」と歌います。騅とは、項羽の愛馬の名前です。
司馬遷の「史記」に記載されているのはここまでであり、虞美人のその後は不明です。後代、項羽が自らの手で殺した、自害を願い出た、項羽に同行するとみせて借りた刀で自害した、生き延びた等々、諸説が語られています。勇猛果敢、百戦百勝の項羽は、礼儀正しく真っ正直な人だったようですが、独裁的で、直情的な面を持った人でもあったようです。項羽については、実に多くの人たちが劉邦との比較において論じていますが、劉邦は、自分は部下たちを用いて天下をとったが、項羽は右腕とも言えるただ一人の部下すら用いることがなかった、と語っているようです。結局、項羽は覇王と呼ばれながら、国を持つことすらできませんでした。その項羽がただ一人心を通わせたのが虞美人だったわけです。
京劇「覇王別姫」における項羽と虞美人の最後は、いまだに人々の心を震わせます。史記には、「虞や虞や 若を如何せん」と歌った項羽に対して応えた虞美人の返歌が記載されています。「漢兵已に地を略し 四方は楚の歌聲 大王の意気は盡き 賤妾いずくんぞ生を聊んぜん」 二人の死は避けがたい状況のなか、項羽は、虞美人に対して、死んでくれとも言えず、ましてや自ら手にかけることもできず、嘆息するばかり。それを百も承知の虞美人は、いずくんぞ生を聊んぜん、と死の覚悟を伝えるわけです。史記が、この先を記していない理由は、単に記録がなかったのか、諸説が多すぎたのか、分かりません。あるいは、これ以上書くのは忍びないと思ったのかも知れません。(写真出典:gardenseedsmarket.com)