2021年11月25日木曜日

美味礼賛

IGPも獲得している”ブリア・サヴァラン・フレ” は人気のフランス・チーズです。これに、メープル・シロップをかけて食べれば、最上級のレア・チーズになります。”ブリア・サヴァラン・フレ”は、20世紀になってから開発されたチーズであり、ブリア・サヴァラン氏が作ったわけではありません。ジャン・アンテルム・ブリア・サヴァランは、18世紀末から19世紀初めに活躍した法律家、科学者、音楽家ですが、ことに美食家として名高い人です。この美味しいチーズには、美食家ブリア・サヴァランの名前が相応しとして、命名されたようです。フランスには、この希代の美食家にあやかって命名された食品が、多々あるようです。日本でもよく知られているケーキの”サヴァラン”も、その一つです。

ブリア・サヴァランは、その著書「美味礼賛」で、よく知られています。実に素晴らしいタイトルですが、これはフランス文学者の関根秀雄が、本書を初訳した際に付けたものです。原題は「味の生理学」であり、「あるいは、超越的美食学をめぐる瞑想録、文学・科学の学会員である一教授によりパリの食通たちに捧げられる理論的、歴史的、時事的著述」という長い副題が付けられています。この本は、グルメ・ガイドでも、料理本でもありません。食を巡る哲学書とも言われますが、むしろブリア・サヴァランが、その博識を駆使して書き上げた、味に関するディレッタント的な蘊蓄本といった風情です。生物学的、医学的、文化人類学的、あるいは哲学的なアプローチがされていますが、決して学術書ではありません。

アカデミー会員たるものが、学術書とは呼べないような代物を書くことは、さすがに気が引けたと見えて、くどくどと言い訳をしています。同時に、やたら科学的な風情を漂わせることに熱心でもあります。とは言え、その豊富な知見や、鋭い考察は、傾聴に値します。ブリア・サヴァランが開く晩餐会は、パリで評判だったようです。恐らく、その席上、気分良く傾けた蘊蓄や、思わず口から出たアフォリズムの数々を記録して、一冊にまとめたものなのでしょう。さすが当代一流の文化人だけあって、そのアフォリズムは、ウィットに富んで、なかなか面白いものが多いと思います。なかでも最も良く知られているのは「君が何を食べるか言ってみたまえ。君が何者であるかを言い当てよう」だと思われます。

「美味礼賛」だけが注目されがちなブリア・サヴァランですが、フランス革命が進行するなか、激動の波にさらされた一人でもあります。フランス東部のベレーの法律家の家に生まれたブリア・サヴァランは、法学、医学、化学等を、ディジョンで学び、弁護士になります。フランス革命へつながる三部会や国民会議にも代議士として参加しています。フランス革命は、バスティーユ牢獄の襲撃後、様々な勢力が政権を巡って血みどろの戦いを続けます。そのなかで、ブリア・サヴァランも追われる身となり、スイス、オランダを経て、アメリカ東部にたどりつきます。ニューヨークやボストンで、フランス語とヴァイオリンの教師として生計をたてたようです。その後、フランスに戻り、ナポレオンの第一帝政期に、パリ控訴裁判所の裁判官になっています。海外での生活は、語学力とともに、多くの食に対する知見をも培ったわけです。

近年、炭水化物ダイエットは、常識になりました。実は、ブリア・サヴァランこそが、炭水化物ダイエットを最初に提唱した人として注目を集めているようです。ブリア・サヴァランは、小麦などデンプン質を多く摂取する人間だけ肥満すること、炭水化物を餌として与えた家畜も肥満することに着目し、デンプン質こそ肥満の原因だとしています。これこそ「美味礼賛」的アプローチの典型だと思います。十分に科学的ではないものの、豊富な知見と鋭い洞察眼から導き出された、結果的には正しい推論です。(写真出典:researchgate.net)

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