豪農の館 |
1922年、困窮を極めた木崎村の小作農たちは、込米の撤廃を地主たちに要求します。込米とは、年貢米を納める際、輸送の際に減る分を考慮し、1俵につき1升の米を上乗せして納める仕組みです。地主が拒否したことで、小作人たちは、小作人組合を結成し、社会運動家たちが結成した日本農民組合にも参加します。大半の地主が要求を飲みますが、一部強硬派の地主たちは、訴訟を起こします。日農の支援のもと、法廷闘争が行われますが、口頭弁論も行われないまま、地主側が勝訴。小作地への立入禁止の仮処分が行われ、組合長は切腹、警察と小作人との衝突も起き、多数の検挙者を出します。その後、裁判所の調停もありましたが、訴訟は継続され、再び、警察に支援された強引な仮執行が行われます。
追い込めらた小作人たちは、日農の支援のもと、団結を強め、演説会や集会を開き、生活費捻出のための行商隊を編成し、婦人部による地主宅への連日の抗議行動等が行われます。さらに、争議のために学校が機能停止になったため、組合は、小作人の子弟のための学校を開きます。この計画には、賀川豊彦、三宅正一など著名な社会運動家たちが参加、教師としても現地入りします。また、資金作りのために、芥川竜之介、菊池寛、大宅壮一等多数の作家たちが参加して「農民小説集」が刊行されます。木崎村小作争議は、全国的に注目を集め、連日、東京から社会運動家や文化人たちが押し寄せ、毎日、演説会等が開かれたと言います。現地にも赴いた大宅壮一は、当時を「革命前夜のようだった」と振り返っています。
小作人小学校は、校舎まで建設されますが、いわば無認可の私立学校であり、警官も乗り出す騒動になりました。ここへきて乗り出した政府は、治安維持法適用をちらつかせ、事態の収拾にあたります。小作人にとっては、生きていくための耕地奪還が目的だったため、象徴に過ぎなかった小学校は自主的に解散されます。1930年、控訴審でも小作人は敗北し、争議は終息していきました。小作争議は、江戸期から各地で頻発していました。とりわけ木崎村争議が大事件となった背景には、辛亥革命、ロシア革命、ドイツ革命、あるいは頻発する米騒動等を背景に盛り上がった大正デモクラシーがあります。いわばその象徴的事件として、当時のインテリ層がこぞって熱狂したわけです。
小作制度は、戦後、GHQによる農地改革で、強制的に終焉を迎えます。占領下でなければ、終われなかったとも言えます。木崎村小作争議がなければ、農地改革もなかった、という人もいます。その直接的因果関係は疑問ですが、歴史の流れを作ったことは事実だろうと思います。そういう意味では、大正デモクラシー自体も、よく似ています。普通選挙、政党政治、言論の自由、天皇機関説等々は、戦後の民主主義、自由主義への大きな足がかりになりました。ただ、社会主義や共産主義の高まりに対して、悪名高き治安維持法が制定されるなど、既存権力の維持がはかられ、日本が、反動的にファシズムへの道を進む背景ともなりました。(写真出典:city.niigata.lg.jp)