2021年11月3日水曜日

潮待ち港

福山市内のバス停を見ると、”トモテツバス”と書かれていました。トモテツとは、鞆の浦鉄道なのかと思い調べてみると、鞆の浦と福山を結んでいた鞆鉄道が起源の会社でした。鞆鉄道は、1913年に軽便鉄道としてスタートし、1954年に廃線となっています。かつて日本全国には、軽便鉄道が360以上あったようです。鉱業や林業用も多かったのですが、8割近くが人貨用だったようです。文明開化の象徴でもあり、旅行や物流に革命を起こした鉄道は、明治後期になると、軽便鉄道として全国津々浦々に広がったわけです。多くは、地元資本で開設されています。江戸期の商業資本の蓄積があればこそ、という話でもあります。

沼隈半島の鞆の浦は、天然の良港であり、かつ風光明媚な土地柄ゆえ、古くから栄え、万葉集にも歌われています。平家ゆかりの地でもあり、信長に追われた将軍足利義昭が逃げ込んだ地でもあります。また朝鮮通信使の寄港地にもなっていました。狭い港町ながら、由緒ある寺社仏閣が多いあたりにも、歴史の古さを感じさせます。幕末の1867年には、坂本龍馬率いる海援隊の”いろは丸”が、紀州藩船と衝突、鞆の浦へ曳航中に沈没します。いわゆる「いろは丸事件」です。龍馬が、紀州藩と賠償交渉を行うため、鞆の浦に滞在していたことも有名です。また、各種生薬が入ったリキュールの保命酒は、江戸期にこの町で生まれています。

鞆の浦は、潮待ち港として、よく知られています。鞆の浦は、ちょうど瀬戸内海の真ん中あたりに位置し、西の豊後水道、東の紀伊水道の潮がぶつかり合う場所です。潮と風が頼りだった時代の船は、潮に乗って鞆の浦に入り、潮を見計らって瀬戸内海へと漕ぎ出します。潮待ち港は、他にも、下関,尾道,笠岡,下津井,牛窓等がよく知られています。航海技術が発達し、陸地に沿って進む”地乗り”から、島の間を縫って走る”沖乗り”が主流になると、潮待ち港は役割を終えます。交通の要所としての鞆の浦の価値は下がりますが、依然、瀬戸内中央の中継地点として機能していたようです。

一方、景勝地としての鞆の浦の人気は、明治以降、さらに高まります。東側の仙酔島や弁天島、西側の阿伏兎観音といった景観が好まれ、天皇はじめ皇族も訪れています。1934年には、日本初の国立公園に指定されています。鞆軽便鉄道が敷設された目的は、まさに観光にあったわけです。また、産業的な価値を失ったことが、逆に古い町並みを保つことにつながり、その風情が人気となります。戦後は、多くの映画やTVの撮影が行われています。若い人たちにとっては、宮崎駿の「崖の上のポニョ」(2003)の舞台として有名です。鞆の浦を気に入った宮崎駿は、数ヶ月、ここに住み込んでポニョを描き上げたと言います。

ところで、鞆の浦名物の保命酒ですが、街を散策すると、やたら”保命酒本店”という看板に出くわします。一軒の”本店”に入り、本店が多い謎を質問してみました。保命酒は、江戸初期、大坂の医師中村吉兵衛が考案し、鞆の浦で製造・販売しました。製法は、中村家の一子相伝とされていたようですが、江戸末期に廃業します。明治になると、複数の業者が類似品を作りはじめ、皆、保命酒の名前で販売したのだそうです。現在は4社が製造を行っており、多少、成分の違いもあるようです。保命酒とは、ブランド名ではなく、いわば酒の種類だったわけです。(写真出典:anniversarys-mag.jp)

マクア渓谷