2021年11月21日日曜日

熱海

30年近く前、労働組合の中央執行委員をしていたことがあります。全国から数百人の代議員が集まる定期大会は、熱海で行うことが伝統になっていました。前後の会議も多いので、中央執行委員は、1週間近く滞在することになります。温泉はうれしいのですが、1週間も雑魚寝が続くのは、しんどかったことを覚えています。 当時、多くの労働組合が、熱海で定期大会を開催していました。随分とご気楽な印象ですが、大人数を考えれば、東京開催よりも、熱海の大箱の方が、会場費、宿泊費、懇親会経費も安くあがったわけです。ただし、雑魚寝になるわけですが。

かつて、熱海、別府はじめ、日本の温泉地の多くは、団体旅行で賑わっていました。社員旅行、慰安旅行、各種会議等で、ホテルのなかは、新宿の雑踏並に混雑していたものです。大型ホテルには、巨大な宴会場や会議場、10人くらいが雑魚寝できる個室はじめ、ショーを行うクラブ、カラオケ・ルーム、雀荘、居酒屋、ラーメン屋まで完備してあり、外に繰り出すことなく、二次会、三次会まで行えました。浴場も、趣向を凝らした遊園地的なものを売りにしていました。料理は、お決まりの宴会料理で、食欲がわくようなものではありませんでした。宴会開始後、5分もすれば、皆、ビール瓶やお銚子を持って移動しはじめ、会場のそこここで車座ができたものです。そんな調子ですから、深夜には、皆、空腹になり、館内のラーメン屋が混雑するわけです。そして、仕上げは、夜半過ぎ、個室に集合して始まる飲み会です。

今、思えば、ゾッとしますが、当時は、それが当たり前で、楽しみでもあったわけです。団体旅行は、1950年代後半、高度成長、鉄道・道路の整備とともに、ブームとなっていきます。戦前の旅行業は、修学旅行や新婚旅行が目玉であり、団体旅行は始まったばかりだったようです。戦後の団体旅行ブームを支えたのは、企業と農協だったのでしょう。もちろん、観光という側面もありますが、やはり温泉地での宴会が主たる目的だったように思えます。江戸期、農民の間で定着した湯治の文化が背景にあり、慰労会と言えば温泉だったのでしょう。ブームに対応して、温泉地のホテルは、多額の借入を行い、改築、増築を重ねていきます。しかし、ブームは、突然のように終わりを告げることになりました。いわゆるバブル崩壊です。

あれほど賑わった熱海からも、団体客は減っていき、街は寂れていきます。時代は、ゆるやかに個人旅行へと変化していきました。かつて団体旅行ブームから取り残されていた温泉地が脚光を浴び始めます。団体旅行を当て込んだ大型化投資が徒となって、倒産するホテルも散見されました。熱海は、歴史的役割を終えた昭和の遺産になりつつありました。ただ、古代から続く温泉場の実力は残っていました。2000年前後でしょうか、地元商店街を中心に、熱海の魅力をアピールするキャンペーンが始まります。当初、資金もないなかでの手作り感満載のキャンペーンには、効果のほどを疑わざるを得ませんした。しかし、熱海は見事に復活を遂げます。復興への大きな足がかりとなったのは、ホテルが個人旅行シフトに対応し始めたことでした。キーワードは、露天風呂付個室、地元食材を使った料理でした。

山高ければ谷深し、と言いますが、バブル崩壊後の熱海は、まさにそういう状態だったと思います。その後、立ち直った熱海は、個人旅行客で混雑していきます。コロナや天災の打撃は大きかったはずですが、一方で、今、熱海のマンション・別荘が高騰していると聞きます。リモート・ワークの普及に伴い、東京に近い立地が人気なのだそうです。昔、大手ホテルチェーンの社長から、ホテル業の成否は、一に立地、二に立地、三、四が無くて、五に立地、と聞きました。熱海は、やはり東京の奥座敷、ないしは離れなのでしょう。(写真出典:ja.wikipedia.org)

マクア渓谷