宝厳寺蔵「面向不背の玉」 |
四国八十八箇所霊場の第八十六番札所、香川県の志度寺の縁起にまつわる玉取り伝承です。この話をベースに書かれた能楽「海士」は、人気の演目です。この曲は、世阿弥以前の金春流で演じられていたようです。能楽は、世阿弥以降、夢幻能として、幽玄の世界を展開していきます。夢幻能の前の時代に書かれたこの曲は、ドラマチックでスペクタクルな要素が濃い曲になっています。曲の中で、成長した房前は、讃岐を訪れ、亡き母の亡霊に出会います。成仏出来ずにいた母の霊は、房前の供養によって、龍女となって成仏し、喜びあふれる早舞を舞います。この地を志度寺と号して、栄えたのも、房前の孝行あってのこととして、曲は閉じます。
記録によれば、既に存在していた志度寺を「死渡道場」と命名し、堂を増築したのは不比等です。その子房前も、行基とともに堂を建立しています。確かに、藤原家とは、縁浅からぬ寺ではあります。高宗が贈ったとされる三つの宝物は、一度打つと僧侶の袈裟をかけるまで鳴り止まないという楽器「華原磐」、墨をすると自然に水が湧き出るという硯「泗濱石」、そしてどの角度から見ても中の仏が正面に見えるという玉「面向不背の玉」です。華原磐と泗濱石は、確かに興福寺に現存しています。また、面向不背の玉は、一旦、興福寺に納められたようですが、何故か琵琶湖の竹生島にある宝厳寺に所蔵されています。宝厳寺を開いたのは行基であり、房前との関係も深く、興福寺から贈られたものかも知れません。また、言うまでもありませんが、藤原鎌足の娘が、唐の高宗に嫁いだという記録は、日本にも中国にも存在しません。
この時代、白村江の戦い(663)で唐に大敗したヤマト王権は、唐による日本本土への侵攻を恐れていました。九州や瀬戸内に砦や山城を築き、防衛を強化すると共に、中央集権化を進めるために律令体制を確立します。日本初の本格的律令である大宝律令(701)制定を主導したのが、藤原不比等でした。同じ頃、戦後交渉や唐の動静を探るため、遣唐使が派遣されていますが、三つの宝物とは、遣唐使の土産だったと考えられます。讃岐沖で、遣唐使が帰国する船から、面向不背の玉が海中に落ちる事故が発生し、それを回収したのが海士だったのでしょう。讃岐の人たちは、志度寺と縁のある藤原家に、この恩を忘れさせないために、玉取り伝承を創作したのではないか、と考えます。多くの伝承は、実際に起きた事象や背景を持って創作されるものですが、この伝承も、事実を巧みに織り込んだ上出来の伝承だと思います。
能楽「海士」は、子を思う母の強さを伝える曲です。同時に、仏教的意味合いも濃い作品です。女性は成仏できないとされていた仏教を変えたのは大乗仏教でした。法華経のなかでは、女性は龍女になって成仏するとされています。能楽は、興福寺に奉仕した大和猿楽四座から生まれています。結城座からは観阿弥・世阿弥親子が出て今の観世流となります。円満井座は金春流、外山座は宝生流、坂戸座は金剛流となって、今に至ります。能楽と藤原家の興福寺との関係は深いわけです。(写真出典:chikubushima.jp)