2021年11月5日金曜日

最後の晩餐

イエス・キリストが処刑された日については、聖書にユダヤ暦の”二サンの月の14日の金曜日”との記載があり、紀元30年4月7日、ないしは33年4月3日とされてきたようです。この問題に答えを出したのは、天文学でした。聖書には、イエスの処刑前に日食や月食があったという記述があり、そこから推定すると紀元30年4月7日が、その日だということになったようです。処刑前夜、つまり4月6日の夜、イエスは、十二使途とともに食事をします。いわゆる”最後の晩餐”です。席上、イエスは、ユダの裏切り、使徒の離散を予言します。食事した場所は、エルサレムのダビデの墓にある建物の二階とされ、今も保存されています。

最後の晩餐のメニューは、パンとワインです。それが聖餐、聖体拝領として、今も儀式として続いているわけですが、パンについては、発酵したものか発酵していないものかという議論があるようです。パンとワインという食事は、当時としては、ごく普通の食事だったようですが、最後の晩餐は、タイミング的に、ユダヤ教の伝統行事”過越”の食事だったとも理解できます。とすれば、パンは、無発酵のものになります。過越は、モーゼがユダヤ人をエジプトから脱出させたことを祝う行事です。脱出前、時間がなかったので、発酵を待たずに焼いたパンを食べたという故事にちなみます。出エジプトを記念する行事に相応しいエピソードですが、実際には、ユダヤの古い農業行事が起源とも言われます。

美術の世界で”最後の晩餐”と言えば、レオナルド・ダ・ヴィンチがミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂に描いた壁画のことになります。天才ダ・ヴィンチの数少ない完成作であり、ドラマティックな構図、一点透視図法、解剖学の応用など、後の絵画を変えた傑作とされます。ただ、最も損傷の激しい壁画としても知られています。壁画は、漆喰が乾かないうちに描き上げ、壁と一体化させるフレスコ画が主流でしたが、ダ・ヴィンチは、乾いた漆喰の上に、テンペラで描いています。この手法では、時間をかけて重ね塗りしていくことが可能になりますが、一方で、湿度による剥離が進む等、保存が難しくなります。保存など頭にない部屋の使い方や水害、戦争による損傷が進み、一方で、何度も修復が行われてきました。1999年まで20年以上をかけて行われた大修復では、原型に近い形が姿が復元されたと言われています。

我々の世代で、”最後の晩餐”と言えば、もう一つ忘れてはならない存在があります。開高健のエッセイ集「最後の晩餐」です。食通として知られる開高健が、古今東西の食に関する蘊蓄を傾けています。興味深いのは、最後の章に当てられたのが、カニバリズムである点です。言葉を通じて食を追求していった先にカニバリズムがあるというのは、いささか観念的に過ぎる気きもしますが、食の深遠さを伝えているとも思えます。さらに言えば、キリスト教の聖体拝領の不思議さにもつながります。キリストは、最後の晩餐において、パンは私の体、ワインは私の血と言って、使途たちに与え、それが聖体拝領として今に続きます。もちろん、キリスト教への帰依、あるいは思想の継承と共有という観念的なものではありますが、なぜ体と血でなければならなかったのでしょうか。人間にとっての、食の奥深さを思わざるを得ない面があります。

私の”最後の晩餐”は、炊きたてのご飯にいくらの醤油漬け、つまりいくら丼と決め、家族に徹底しています。もちろん、大好物なわけですが、大好物や幸せを感じる食べ物なら他にもたくさんあります。しかし、最後の食事としては、自分の生い立ちや思い出のようなものが反映されたものになるのだと思います。大げさに言えば、味だけではなく、自らの人生が反映されるわけです。酒のアテ話として、あなたの最後の晩餐は何、とよく聞きます。聞かれた人たちは、皆、結構、面白い反応を示します。まずは悩み、大好物を挙げます。そして少し考えてから、はじめの答えを変えてきます。その短い時間のなかで、自らの人生を振り返っているのでしょう。いわば、聖餐化の作業とも言えそうです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

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