井上伝 |
絣の技法は、インド発祥とも言われますが、古くから世界中に存在したようです。正倉院の宝物のなかに、中国伝来と思われる絣生地もありますが、技術は伝来しなかったようです。その後、琉球経由で、絣の技術は伝わったものの、広がりを見せることはありませんでした。井上伝の技術は、まったく独自に編み出されたものでした。実は、伊予国でも、同じ頃、同じ事が起きていました。井上伝とほぼ同年代の農家の嫁鍵谷カナが、絣柄を考案し、後の伊予絣が生まれています。また、幕末に至り、備後国の医師の息子であった富田久三郎が、阿波の織絹法にヒントを得て、備後絣を生み出しています。久留米絣、伊予絣、備後絣は、日本の三大絣と呼ばれます。
江戸末期から幕末に開発された木綿の絣は、明治の世になると、和装の普段着として、爆発的な広がりを見せます。全国各地で特色ある柄が織られ、年間、数百万反が生産されていたと言います。明治中期以降の自動織機の普及が、大きな役割を果たしたことは言うまでもありません。太平洋戦争中、絣の着物はモンペに仕立て直され、作業着としてだけではなく、割烹着と併せて女性の普段着の定番となりました。伝統的な絣柄としては、十字,井桁,田の字,蚊絣などがありますが、なかでも矢絣は、明治期から昭和初期にかけて、若い女性の間で大流行しました。近年、卒業式に袴を着用する女性が多くなりましたが、大正浪漫を感じさせる伝統的な矢絣も定番の一つになっています。
歴史の中で人類が重ねてきた技術的進歩の多くは、名も無き人々が、ちょっとしたことに疑問を持ち、しぶとく工夫を重ねた結果、生まれたものだと思います。絣に関しては、技術を編み出した少女たちの名が残りました。近世に起きたことであり、その後、産業化に結びついたからのでしょう。また、背景には、江戸期の商工業の発達、あるいは教育レベルの高さもあったと言えそうです。興味深いことに、井上伝は、その技術を独占するのではなく、弟子を取って広く伝授しています。弟子の数は、3,400人に達したと言います。うち400人が、その技術を持って各地に散り、絣の技術を全国に広めたそうです。また、井上伝は、15歳の頃、絵絣の技法も完成させています。その開発にあたっては、同じ久留米の「からくり儀右衛門」こと田中久重の協力を仰いだと言われます。「東洋のエジソン」とも呼ばれた田中久重は、後に東芝を創業しています。
最近、久留米絣は、面白い取り組みを始めています。絣のモンペを細身に仕立て、「日本のジーンズ」として売り出しているのです。通気性、肌触り、耐久性に優れる久留米絣ですから、普段着としては理想的だと思います。早速、ネットで買ってみようと思いました。ところが、気に入ったサイズ、色、柄のものは売り切れていました。絣の風合いを活かす伝統的な織り方をしていることもあり、決してお安くはありませんが、人気を博しているようです。恐らく、一度着用したら、手放せなくなるのでしょう。(写真出典:kurume-kasuri.com)