2021年10月24日日曜日

ミシャグジ

諏訪大社上社拝殿
歴史、特に古代史は、新たな発見や発掘によって、定説が覆ったり、新たな仮説が生まれたりします。近年、科学技術の発展とともに、新たな発見が増えているように思います。日本の古代史で最も人気があるのは、なんと言っても邪馬台国の所在地、そしてヤマト王権の成立に関わる議論です。邪馬台国は、九州説と畿内説で激論が交わされてきましたが、奈良の纏向遺跡で大型建造物等の痕跡が発掘されたことから、畿内説が有力になってきたようです。併せて、同遺跡内の箸墓古墳が、卑弥呼の墓ではないか、という説も人気です。また、全国で、多くの古墳が続々発見されており、特に前方後円墳の広がりから、ヤマト王権成立期の様子が明らかになってきています。 

技術の進化とともに、古代史への注目が高まっていることも、新たな発見が続く背景にあるのでしょう。邪馬台国とヤマト王権ばかりが注目される傾向もありますが、古代史の大スターとしての”諏訪”を忘れてはいけないとも思います。諏訪地方は、中央構造線と糸魚川静岡構造線が交差し、糸静線沿いの断層がずれたことで生まれた盆地です。八ヶ岳の裾野を通って甲府、その先の関東へもつながります。江戸期の五街道で言えば、甲州街道と中山道が交わる交通の要衝です。諏訪盆地には、多数の縄文遺跡が発見されています。諏訪は、縄文期の一大拠点だったわけです。その最大の要因は、良質な黒曜石が容易に採掘できたことにあります。薄く割れる黒曜石は、斧、矢尻になります。良質な諏訪の黒曜石は、関西から北海道にまで流通していたようです。

さらに諏訪の信仰には、縄文文化が弥生文化にオーバーラップされた痕跡を見ることができます。諏訪と言えば、御柱祭りの諏訪大社が有名ですが、諏訪の信仰の本質は、今でも、縄文中期から存在したミシャグジ信仰ではないかという説があります。ミシャグジの漢字表記は、石神、宿神はじめ様々ありますが、いずれも後世の当て字です。木や石を拝むミシャグジ信仰は、今も続いていますが、その本質は、物質ではなく、目に見えないパワーだと言われます。諏訪大社はご神体がなく、かつては歴代神氏が務める神官”大祝(おおほうり)”が現人神とされていました。大祝即位の祭祀を司るのは代々守矢氏が務める”神長(かんのおさ)”です。守矢氏は、古来、ミシャグジ信仰を司ってきた家であり、大祝即位の祭祀も、ミシャグジの力によって行われるとされています。

諏訪大社が祀る神は、建御名方神(諏訪明神)です。「古事記」の国譲り伝説によれば、天照大御神が出雲の大国主神に国譲りを迫った際、大国主神の次男である建御名方神が抵抗します。天照大御神が送り込んだ建御雷神に破れた建御名方神は、諏訪に逃げ込み、以降、諏訪を離れないことを条件に助けられます。建御名方神は、元々諏訪に君臨してきた洩矢神を倒して、諏訪に入ります。洩矢神は、代々ミシャグジを祀る守矢氏だったと考えられます。つまり、縄文社会が出雲系の弥生文化に取って代わられたわけです。出雲の場合、ヤマト王権的は、征服した大国主命を祀る出雲大社を建てることで、地元民の心情に配慮しつつ、統治下に組み込みました。諏訪大社も同様なのですが、多少、複雑な工夫が施されています。

建御名方神の入諏の逸話は、古事記にしか登場しないことから、後に挿入されたのではないかという説があります。想像するに、ヤマト王権による諏訪の征服は、かなり手こずり、時間がかかったのでしょう。抵抗勢力ということで、大国主命の次男と位置づけ、国譲り伝説に組み込んだのだと思います。とすれば、建御名方神は外来神となりますので、あえて御神体を置かず、在来神であるミシャグジの力で大祝を現人神にするという絶妙な折衷案を採ったのだと思われます。単なる豪族ではなく、ミシャグジが根強い信仰だったため考え出された策なのでしょう。諏訪は、農耕を開始した後も、しばらくは結束の強い縄文的社会が存続し、ゆえにヤマト王権も手を焼き、かつ今に至るまで縄文の色が残ったのだと思います。素人考えですが、諏訪大社の御柱は、建前上は建御名方神を封じ込めるための結界であり、かつ本当の狙いはミシャグジの封じ込めだったのかも知れません。(写真出典:ja.wikipedia.org)

マクア渓谷