2021年10月23日土曜日

ロアノーク植民地

プリモス・ロック
マサチューセッツ州プリマスの海岸に「プリマス・ロック」と呼ばれる岩があります。1620年、英国での弾圧から逃れるために、ピューリタンの一団が、メイフラワー号で大西洋を横断、アメリカ大陸に上陸します。いわゆるピルグリム・ファーザーズであり、彼らの上陸第一歩が、このプリマス・ロックの上にしるされたとされています。実際に見ると大きな岩ではありません。元々は、もっと大きかったのが、移動させる際に割れ、上部だけが残されたようです。17世紀の文献には一切記載がなく、1741年に、トマス・フォーンスという老人が、言い始めたことのようです。彼が、当時、90歳を超えた入植第二世代であったことから、信憑性が高いとされたようです。

メイフラワー号とプリマス植民地が、あたかもアメリカ開拓の始まりのように思われていますが、必ずしも正しくはありません。16世紀、北米には、欧州から、探検家、漁労者、狩猟者、そして先住民と毛皮の取引を行う商人たちが、それなりに行き来してました。英国による最初の永住型植民地は、ウォルター・ローリー卿の出資により、1585年、ノース・キャロライナ州のロアノークに作られます。第一次隊は、7隻の艦隊で出航し、300人の植民者を予定していました。ただ、船が座礁するなどの困難に襲われ、約100名だけで植民地がスタートします。十分な食料や装備を持たなかった一次隊は、補給船が大幅に遅れたために、15名だけを残して、立ち寄ったフランシス・ドレークの私掠船で帰国しています。二次隊は、1587年に、117人が送られます。ただ、居残った一次隊の15名は見つけられませんでした。

二次隊も、先住民との戦いや食糧事情が厳しく、帰国する艦隊に母国への救援要請を託します。しかし、おりしも英国は、スペインとの戦争の最中であり、救援船の調達は困難を極めます。ようやく確保した船も、出航した途端にスペインの略奪にあい、英国へ戻っています。結局、救援隊がロアノークにたどり着いたのは、3年後の1690年でした。しかし、そこには誰一人おらず、襲撃された形跡もなく、建物は解体され、持ち運べるようなものはすべて無くなっていました。また、先住民かスペイン人に襲撃され、植民地を退去する場合に残すことになっていた目印も見つかりませんでした。ロアノーク植民地は、忽然と消えたわけです。ローリー卿自身も含めて、捜索隊も編制されましたが、成果を得ることはありませんでした。もっともローリー卿の捜索は名ばかりで、主たる目的は貿易だったようです。

1607年、ヴァージニア州にジェームスタウン植民地が建設されます。初めての永続した植民地であり、1699年、伝染病が多かったことから、ウィリアムスバーグに移転するまでの90年間存続しました。ジェームスタウン入植直後、先住民に捕まった入植者が、不思議な情報を入手します。ある部族に、洋服を着て、英語を話す白い肌の人間たちがいる、というのです。早速、探査隊が出されますが、その部族を見つけることはできませんでした。その後、時代は下って18世紀初頭、ロアノーク近くを探検した英国人の歴史家が、先住民の集落で、白い肌、灰色の目のインディアンを何人か確認しています。恐らく、ロアノークの植民者たちは、生きるために近隣の先住民たちに同化していったのでしょう。1世紀を経て、彼らのDNAが、子孫の肌や目の色に残ったわけです。

ロアノークでもなく、ジェームスタウンでもなく、規模も小さく、後発のプリマス植民地が建国の起点とされるのは、何故なのか、不思議なところです。実は、メイフラワー号、ピルグリム・ファーザーズ、プリマス植民地が注目されるようになったのは、アメリカ独立戦争前後からだと言われます。独立戦争という時代背景からすれば、英国重商主義の手先であるロアノークやジェームスタウンよりも、英国の弾圧を逃れて新天地を求めたピューリタンたちの方が、革命の理念に合致していたわけです。加えて言えば、ジェームスタウン植民地では、1619年に黒人労働者が投入されています。当初は奴隷ではなかったものの、後に奴隷化されます。要は、ジェームスタウンが、米国における黒人奴隷発祥の地であったことも影響したのでしょう。ちなみに、プリマスにもウィリアムスバーグにも、往時の町並みと生活を再現した野外博物館があります。いずれも興味深い人気の観光地です。(写真出典:washingtontimes.com)

マクア渓谷