2021年10月22日金曜日

坂東

太田道灌
太田道灌が、鷹狩に出かけたところ、村雨にあい、粗末な農家で雨具を貸してくれと頼みます。応対した娘は、黙って、山吹の枝を差し出します。道灌が戸惑っていると、側近が「古歌に『七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに 無きぞ悲しき』という歌があります。娘は貸せる蓑が無いことを恥じて、実のならない山吹の枝を出しているのでしょう」と助言します。納得した道灌は、己が歌の道に暗いことを嘆き、精進を重ねて、大歌人になりました。いわゆる「山吹の里」伝説です。歌は、兼明親王の作で、後拾遺和歌集に収められています。また、この話を下敷とする落語「道灌」もよく知られています。

江戸城を築いた道灌は、戦いに明け暮れる15世紀の関東で圧倒的強さを誇るとともに、学者としても、歌人としても大成した人でした。いつも不思議に思うのは、関東と言えば、鎌倉幕府、江戸幕府ばかりが注目される傾向にあります。それ以前と言えば、平将門、太田道灌の名前が出る程度です。教科書の記載からすれば、都から遠く離れた関東は、流刑地でもあり、未開の地に近かったような印象すら持ってしまいます。しかし、実際には、縄文期には最も多くの人口と集落が集まり、古墳時代には多くの豪族が割拠し、律令体制下では多くの国府も置かれています。また、平安期の三神宮とは、伊勢・鹿島・香取でした。関東の豊かさは、畿内をも凌いだと言われます。道灌の生涯は、ある意味、中世の関東を象徴しています。争いは絶えないものの、文化的なレベルは都に通じるところがありました。

それほど豊かなのに、なぜ日本の中心でもなく、歴史への記載も薄いのでしょうか。日本の中心が畿内であったことは、ヤマト王権が、その発生経緯や文化の受容といった面から、朝鮮半島や大陸との関係、あるいは距離感を重視せざるを得なかったからなのでしょう。また、関東は、豊かで広い土地であったことで、多くの豪族たちが並び立つことを可能にしました。結果、飛び抜けた大国が登場せず、歴史への登場も薄くなったのでしょう。関東には、前方後円墳が点在し、4世紀頃には、ヤマト王権の支配が行き渡っていたことを示しています。「宋書倭国伝」によれば、ヤマト王権が征服した関東の国は、55とも66とも記載されています。国が分立し、それぞれの規模が大きくなかったことが、ヤマト王権による制圧を容易なものにしたと思われます。

関東一円は、かつて吾妻、あるいは坂東と呼ばれていました。坂東とは、信濃国と上野国の界にあたる碓日峠、駿河国と相模国の界にある足柄坂、二つの坂の東に広がる地域という意味です。この大雑把な僻地観が、畿内の人々にとっての関東の捉え方を表しています。朝廷は、王族も含めた人材を投入し、関東の開拓と管理を行います。支配層は、都から遠かったこともあり、家督争いや領地を巡る争いに明け暮れ、ある意味、好き勝手していました。やむなくとは言え、天皇を自称するに至った平将門まで登場するわけです。それ以降も、関東は、平家系、源氏系の大小武士団が割拠し、争いは絶えませんでした。鎌倉幕府は、関東を初めて武力統一した勢力であり、数百年間、戦い続けてきた日本一屈強な武士団を持つことにもなりました。

源頼朝、徳川家康が、関東に拠点を定めた理由は、まずは魑魅魍魎が跋扈する朝廷から距離を置くことだったのでしょう。加えて、頼朝の場合、鎌倉が要害の地であり、関東が自らのホームグランドだったからなのでしょう。家康の場合、秀吉の嫌がらせで江戸に入るわけですが、江戸が、地政学上、天下を治めるのに適した地であることを見抜いたからだと思われます。ヤマト王権は、半島・大陸との関係から畿内に都を置かざるを得ず、日本が成熟してくると、元々、地政学的にも、経済的にも、より天下の中心として相応しかった関東が、政権の地になっていく、つまり、畿内から関東への政権移行は、日本の独立性獲得の過程とも言えそうです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

マクア渓谷