初期のタバスコ |
そのなかで、ビジネスとして最も成功したのがタバスコということになります。タバスコは、1868年、メリーランド出身の元銀行家エドモンド・マキルヘニーによって製造・販売されました。南軍兵士から、メキシコのタバスコ州原産の唐辛子の種をもらったマキルヘニーは、妻の実家があったルイジアナ州エイブリー島で栽培に成功します。ちなみに、エイブリー島は、海上の島ではなく、スワンプとバイヨーに囲まれた内陸の島です。岩塩の産地として知られます。マキルヘニーは、タバスコ・ペッパーをすりつぶし、熟成させたうえで、地元の岩塩と酢を加えて、タバスコ・ソースを完成させます。これを香水用の瓶につめて販売しました。タバスコの瓶は、以来、その形を継承しています。瓶だけではなく、マキルヘニー社は、今もエイブリー島で、手摘み、樽詰めといった創業以来の製法にこだわって、タバスコ・ソースを生産しています。
タバスコ・ソースの起源については、マキルヘニー社版とは異なる説があります。南北戦争以前、美食家として知られたプランテーション経営者マウンセル・ホワイトは、自ら考案したタバスコ・ソースを使った料理を客に振る舞い、ソースが欲しいという客にはボトルに入れて配っていました。しかも、ホワイトは、自宅の庭で、タバスコ・ペッパーの栽培も行っていたようです。エドモンド・マキルヘニーは、自分こそがタバスコ・ソースの発案者だとして、ホワイト発案説を退けようとがんばったようです。ただ、文献なども残っており、昨今では、タバスコ・ソースの発案者は、マキルヘニーより20年も早かったホワイトだとされているようです。とは言え、タバスコ・ソースの特許を取得し、販売を始めたのはマキルヘニーであり、世界にチリ・ペッパー・ソースを広めたことは間違いありません。
では、数多あるチリ・ペッパー・ソースのなかで、なぜタバスコだけが大成功を収めたのでしょうか。恐らく、それは、マキルヘニーがケイジャンではなくメリーランド出身者であり、農民ではなかったことが関係していると思います。ルイジアナのペッパー・ソースは、農民たちが各家庭で作るものであり、販売するにしても小規模だったわけです。それを大々的にマーケティングしようなどとは夢にも思っていなかったはずです。マキルヘニーがよそ者で、金融という異業種からの参入者だったことから、マーケティングの発想が生まれたわけです。タバスコの成功は、まさに異業種効果の産物だと言えます。マキルヘニーは、1870年代の末までに、全米、そして欧州へと販路を拡大したと言われます。今でも、タバスコは、全米規模、世界規模で流通する唯一のチリ・ペッパー・ソースです。
タバスコ・ソースのスコヴィル値は2,500-5,000と言われます。その後、世に紹介された激辛唐辛子は、ハバネロで20万ー45万、ブート・ジョロキアで100万、スコーピオンで150万と、辛さがエスカレートしていきました。アメリカで開発されたキャロライナ・リーバーは157万ー233万、その後継種ペッパーXは318万を記録しています。既に気が遠くなるような値ですが、調製されたホット・ソースの最高峰は、デスソース社の「16 MILLION RESERVE or 6 AM RESERVE」です。そのスコヴィル値は、1,600万。少なくとも、タバスコの3,200倍という辛さです。食べたら、恐らく死にます。もはや意味不明としか言いようがありません。私も、辛いものは嫌いな方ではありませんが、神保町エチオピアのカレーで言えば、辛さ5倍で、既に痛さしか感じません。私は、ブート・ジョロキア・クラスで、確実に死ぬような気がします。(写真出典:worthpoint.com)