川瀬巴水「芝増上寺」 |
西新宿のSONPO美術館で、川瀬巴水回顧展を見てきました。初期の作品から網羅的に展示されていて、見応えがありました。数年前に久留米の旧石橋美術館で吉田博の回顧展を見ましたが、それに匹敵するような充実ぶりだと思います。川瀬巴水は、1883年、芝の糸屋に生まれ、家業を継ぎながら、画家を目指します。一度は断念したものの、想いは強く、鏑木清方に弟子入りします。巴水が日本画から始めたことは、吉田博の洋画スタートと好対照だと思います。もっとも、巴水は、一時期、岡田三郎助に師事したようですが、洋画に馴染めず、日本画に戻ったようです。アプローチは異なっても、二人は風景画で名を成していきます。二人が新版画の世界に入ったきっかけは、ともに版元の渡辺庄三郎との出会いでした。
この渡辺庄三郎こそ、新版画という分野を切り開き、一時代を築いた大立役者でした。大正の蔦屋重三郎とでも呼びたくなるような人です。12歳で質屋の小僧となった庄三郎は、貿易商を目指し、英語の勉強をしていたようです。それも幸いしたか、横浜の外国人相手の美術商に勤めることになり、浮世絵の世界に入っていきます。後に独立して「渡辺版画店」を開くことになりますが、欧米におけるジャポニズム・ブームに乗って、商売は繁盛したようです。庄三郎は、浮世絵を扱うばかりでなく、合いそうな絵を錦絵のシステムを使い、版画化していきます。これに興味をもった伊東深水が参加したことで、新版画が確立されていきました。つまり、新版画は、その誕生経緯からして、当初から海外に目が向いていたとも言えるわけです。
風景画が確立されたのは、17世紀オランダでのことだっただと言われます。風景画では、木々の緑もさることながら、空と雲が重要なモチーフとなります。そこでは、光をどう捉えるかが絵の出来を左右します。もっと言えば、私は、空気感こそ風景画の命ではないか、と思っています。油絵でも、水彩でも、空気感が絵を超えて広がっている作品こそ良い風景画だと思います。新版画は、空気感の表現に、実によく適しているように思います。例えば、吉田博の「フワテプールシクリ」は大好きな版画ですが、空気そのものが画題なのではないか、とさえ思います。巴水の代表作には、夜の静寂、雪や雨の風情が描かれているものが多いと思います。建造物もさることながら、やはり空気感を描きたかったのではないか、とさえ思えます。
1984年に発売されたアップルのマッキントッシュ初号機が、プレゼンに際し、最初に映し出したのは、橋口五葉の新版画「髪梳ける女」でした。これは、スティーブ・ジョブスにまつわる様々な伝説の一つとなっています。ただ、ジョブスが川瀬巴水のコレクターであったことは、今回の回顧展で初めて知りました。ダイアナ妃が、吉田博の版画を愛好していたことを思い出しました。エキゾチシズムもあるのでしょうが、新版画が海外で愛される本当の理由は、西洋絵画にはない、その空気感の表現にこそあるのではないかと思います。(写真出典:asahi.com)