日本の絵画史の頂点に立つ画家は、最多6点が国宝になっている雪舟ということになります。中国の浙派に学んだものの、まったく独自の山水画を生み出し、狩野派が師と仰ぐなど、日本の画壇に大きな影響を及ぼした15世紀の画僧です。一方、日本の絵画史の頂点に立つ作品は、長谷川等伯の国宝「松林図屏風」だと思います。長谷川等伯は、画聖雪舟から100年後、「雪舟五代」を自称した人です。安土桃山時代、栄華を誇った狩野派のライバルとして活躍しました。「松林図屏風」は、日本の水墨画の極致であり、日本文化を最も端的に現している作品だとも言えます。この六曲一双の屏風を見れば、中国はじめ他国の文化と、日本文化との違いが一目瞭然で分かります。
中国の水墨画は、仏教の伝来とともに唐代で成立し、宋代に完成を見、南宋で頂点を迎えると言われます。水墨画が日本に伝わったのは鎌倉時代でした。禅とともに伝わったとされます。禅宗の教義と山水画には何の関係もありませんが、山水画を日本にもたらしたが禅僧であり、シンプルで奥深い山水画と禅宗との相性が良いということなのでしょうが、初期の水墨画は、主に禅僧たちによって描かれています。画題としては、中国禅宗の始祖である達磨大師等が描かれていました。他の渡来文化と同様に、当初は、模倣から始まっています。しかし、1469年、2年間に渡る留学を終え、明から帰国した雪舟は、中国には教わるべき師はいなかった、と語ったとされます。日本の水墨画が形を成したということなのでしょう。
中国の山水画は、山水を描きながら、自分の理想とする世界を強く打ち出しています。雪舟がたどりついた山水画は、自然を詩情豊かに描き、見る者がそれぞれの感性で向き合うという絵画です。いわば見る者の心を写す絵画です。紙や墨の違い、それに基づく技法の相違等もありますが、最も大きな違いは、山水を通じて表現したいものの違いにあります。雪舟が確立した日本の山水を、極限まで高めたのが長谷川等伯の「松林図屏風」だと思います。過剰な表現を一切排除し、松林を静かに浮かび上がらせる構図は、もはや松林を描いているのではなく、空気感を描いているとしか言いようがありません。ある意味、禅の思想を具現化しているようにも思えます。
「松林図屏風」には、制作年代の記録がなく、16世紀末、等伯50歳頃の作品と想定されています。描かれた松林は、雪舟の故郷である能登の海辺のものではないかと言われます。制作記録がないのは、依頼に基づいて描いたのではなく、自分自身のために描いた作品だからです。しかも、「松林図屏風」は、永らく人に知られることもなく、注目を集めたのは、昭和に入ってからのことでした。等伯は、「松林図屏風」を描く少し前、才能豊かだったと言われる長男を亡くしています。また、同じ頃、盟友であった千利休も切腹させられています。悲嘆に暮れた等伯が、最終的にたどりついた無常観が、この静謐な「松林図屏風」に表現されているように思います。
長谷川等伯は、1539年、能登の七尾に生まれ、地元での絵仏師を経て、30歳を過ぎてから都に上ります。40歳を超えてから、初めて障壁画を描き、知り合った千利休の口添えで秀吉に認められたのが40代後半でした。ライバルであった狩野永徳は名門の家に生まれた超エリートであり、底辺から大絵師にまで成り上がった等伯とは好対照と言えます。都に残る等伯の画業の多くは、大和絵であり、絢爛豪華な障壁画です。「松林図屏風」とは真逆とも言える画風です。それだけに、人生の悲哀を経験して得た境地を、自分だけのために表現した「松林図屏風」は、究極の山水であるとともに、近代絵画を予見させる画業でもあると思います。(出典:jbpress.ismedia.jp)