2021年10月14日木曜日

さよならだけが人生だ

川島雄三
「さよならだけが人生だ」という言葉は、実によく知られています。唐代の詩人であった于武陵の五言絶句「勧酒」が原典ですが、井伏鱒二の訳詩集「厄除け詩集」の名訳で有名になりました。原典は「勧君金屈巵 満酌不須辞 花発多風雨 人生足別離」となっています。後半2行を直訳すれば、花開けば雨風多く、人生には別れ多し、ということになります。それを井伏鱒二は「ハナニアラシノタトヘモアルゾ 『サヨナラ』ダケガ人生ダ」と訳します。お見事の一言につきる名訳です。この言葉を愛した著名人は数多くいますが、日本を代表する映画監督の川島雄三も、その一人です。川島の弟子であった藤本義一や今村昌平が、夭折した師匠を追悼した本のタイトルにも使われています。

川島雄三は、1918年、青森県下北半島のむつ市に、老舗酒店の息子として生まれます。明治大学卒業後、松竹に入社しますが、当時、既に難病の筋萎縮性側索硬化症を患っていました。小津安二郎や吉村公三郎の助監督を務め、1944年、26歳にして、織田作之助原作の「還って来た男」で監督デビューしています。オダサクとは、生涯の親友になっています。戦後は、会社指示に基づくコメディ映画を量産します。その当時の作品にも、川島の天才ぶりは見て取れますが、川島にとって、この時期は自らの映画文法を磨くいい機会だったのでしょう。1954年には日活へ移籍します。言ってみれば、噺が上手いと評判の二つ目が、いよいよ真打ちに昇進したようなものです。以降、川島雄三の名を映画史に残す傑作を生み出していきます。

川島雄三のベストは何か、という話は、映画好きが喜ぶテーマの一つです。ただ、日本映画を代表する傑作「幕末太陽伝」(1957年)だけは、いつも別格扱いです。太陽伝は、オールタイム・ベスト企画でも、常に上位にランクされています。落語の「居残り佐平治」を主に、他の噺や幕末の世相も重ねた、川島オリジナル脚本のコメディです。テンポの良さ、スムーズな演出、しっかり組み立てられた映像など、日本映画とは思えないほど洗練されています。また、フランキー堺の名演なしには成立しなかった作品でもあります。フランキー堺演じる佐平治の世渡りのうまさには、労咳病みという影があり、厚みのある喜劇になっています。精力的に多くの映画を撮り、夜ごと、大酒をくらって生きた川島ですが、常に難病という死の影と共にあった自分自身が投影されているのでしょう。「さよならだけが人生だ」は、川島の覚悟のあり様とも言えます。

太陽伝には、数々のエピソードがありますが、最も有名なのは幻のラスト・シーンという話です。太陽伝は、撮影当時の品川の赤線地区の映像から始まります。同様に、川島が構想したラストは、佐平治がスタジオから現代の街へと駆けだしていく映像だったようです。フランキー堺はじめ周囲の猛反対でボツになっていますが、フランキー堺は、生涯、反対したことを悔やんだと言います。佐平治は、時代の環境に左右されながらも、たくましく生きる江戸庶民の姿であり、それは戦後の混乱期の大衆にも受け継がれます。好きなセリフがあります。佐平治が、石原裕次郎演じる高杉晋作に「だんなはお侍には惜しいねェ」と言うと、高杉晋作は「世辞を申すな」と返します。これこそ、川島雄三流の民主主義なのでしょう。

太陽伝の幻のラスト・シーンは、多くの映画人に影響を与えていると言われます。川島の弟子の今村昌平は「人間蒸発」で、川島と同郷の寺山修司は「田園に死す」で、実現させています。また、最近では、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」のラストで、あれっ、と思わされました。どうやら、庵野秀明は、昔から、太陽伝がやりたい、と言っていたようです。映画人たちが抱くテーマは、煎じ詰めていけば、普遍性を持つに至ります。ストーリーが持たざるを得ない時空の制約を超えて、それを直接的に映像化したいと思うのは、映画人に共通する想いなのでしょう。(写真出典:cinra.net)

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