2021年10月29日金曜日

キャンベル・スープ缶

子供たちが、まだ小さかった頃、たまにNY近代美術館へ連れて行きました。”この展示室のなかで一番好きな絵を探しておいで”と言うと、子供たちは嬉々として走り出し、お気に入りの現代アートを選んできます。面白いことに、子供たちが選ぶ作品は、おおむね、その展示室のなかで最も有名な作品でした。美術や音楽、あるいは詩の評価とは、煎じ詰めれば、”好きか嫌いか”だけなのではないか、と思っています。もちろん、人気の絵画や音楽には、好まれる理由があります。それが分析されることはあっても、いわゆる評価とは多少異なるように思います。一方、文学や映画は、ストーリーを追うという性格上、説明的にならざるを得ない面があります。そこでは伝えるという技術が求められ、その点が評価の対象となります。

1950年代のイギリスで始まり、60年代のアメリカで花開いたポップ・アートは、反体制というカウンター・カルチャーの中核の一つでした。ロイ・リキテンスタインやアンディ・ウォーホルは、まさに時代の寵児でした。ロイ・リキテンスタインは、アメリカン・コミックのひとコマを拡大し、鮮やかな色のドットで表現していきます。アンディ・ウォーホルが、1962年に発表したキャンベルのスープ缶を題材とした作品は、ポップアートの誕生とまで言われます。いずれにも共通するのは、アメリカではどこにでもある、ごくありふれたコマーシャル・プロダクトを題材にしている点です。そして、いずれも議論を呼びながらも、多くの人々に、あるいは時代に受け入れられました。

アンディ・ウォーホルは、若くして成功した広告イラストレーターであり、商業デザイナーでした。マディソン街の売れっ子は、仕事に疲れ、32歳で引退してアートの世界に入ります。62年7月にはLAで、11月にはNYで個展が開かれ、ウォーホルのキャンベル・スープ缶がデビューします。どこにでもあるスープ缶の絵が並んでいるだけのギャラリーは、美術界に衝撃を与えます。思えば、それは、至って単純な議論でした。”これは芸術と呼べるのか”という疑問の声も多く、一方では、”現代文明への痛烈な批判である”という賛辞も起こります。同じ年の10月、英国の音楽界で似たような議論が起きます。ビートルズのデビューです。その音楽とヘア・スタイルが、世界を驚かせたわけです。

ウォーホルのキャンベル・スープ缶は、大量消費社会や画一化されたアメリカ社会への批判だと言うのは周囲の人たちであり、ウォーホルは”私のランチは、毎日キャンベル・スープです”としか言っていません。ウォーホルは、作品について何も語らず、”表面だけを見てください。私の内面には何もありません”とうそぶくわけです。私は、ポップ・アート好きですが、その面白さは、視点を変えることにあると思っています。日常的なものを非日常的に見せる、非日常的なものを日常のなかに置く、といったことです。それを面白いと思うか、美しいと思うか、あるいは、それによって物質文明を憂うるか、それは受け手の勝手です。ポップ・アートは、そうした機会を提供することで、より自由な世界を開いてくれる代物だと思っています。

ウォーホルのキャンベル・スープ缶は、アメリカ国内での受け止めと、日本や欧州のそれとでは多少異なる面があると思います。アメリカでは、ありふれた日常でも、戦争で疲弊した他国からすれば、物があふれる憧れの国アメリカの象徴だったのだと思います。我々の世代は、アメリカ文化の洗礼を受けて育ちました。アメリカの物は、なんでも輝いて見えたわけです。ちなみに、その影響もあってか、私は、いまだにキャンベル・スープのヘヴィー・ユーザーです。一番好きなのはマッシュルームです。飲むと幸せを感じます。(写真出典:amazon.co.jp)

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