明治後期の銀座 |
私は、ベトナム・ラーメンに、銀座の底力を垣間見たように思っていました。老舗が軒を並べ、表通りには欧州ブランドの旗艦店がひしめく銀座は、伝統を守るとともに、常に時代の新しい流れを取り込み、鮮度の高さを確保してきました。これが銀座というブランドの強さなのだと思います。それは老舗の皆さんのご努力の賜物でもありますが、銀座の歴史が形成した街の特性でもあります。江戸幕府開闢の頃、銀座周辺は江戸前島と呼ばれる砂州でした。江戸城との間には、日比谷入江が広がっていましたが、これは埋め立てられ、武家屋敷となります。江戸前島は、町人地として整備され、銀の貨幣を鋳造する銀座が置かれます。能楽堂等も建てられましたが、基本的には幕府御用達の職人町になっていきます。商店が軒を並べ、庶民で賑わう日本橋や京橋とは大違いの地味な町だったわけです。
明治初期、大火で焼かれた東京の町を、明治政府の都市計画が作り変えていきます。新橋停車場と日本橋の間に位置する銀座は、文明開化を象徴するレンガ街として整備され、商店の進出が始まりました。とは言え、依然として庶民の繁華街は日本橋・上野あたり、歓楽街は浅草でした。銀座の商店の顧客は、主に華族等の上流階級、そして役人等の中流階級でした。政府肝いりのハイカラな町だったこと、そしてアッパー・クラスの住居が赤坂、番町といった山の手にあったからなのでしょう。ここで銀座という町の特色が生み出されました。銀座の百貨店や老舗を支えるコアな顧客は、家族三代、四代と続く贔屓客であり、なかには皇族も含まれます。これが、銀座ブランドのコア・コンピタンスなのでしょう。
大正期には、東京駅が開業し、市電も開通したことにより、銀座には、百貨店や劇場が進出します。それに伴い、カフェーが花盛りとなり、モボ・モガが闊歩するという、進歩的な繁華街の一面を見せ始めます。ブランドの鮮度を保つという伝統が生まれたわけです。戦後は、周辺開発も進み、銀座は順調に日本一の繁華街として成長していきます。ただ、東京の人口が増え、郊外への拡張が進むのに伴い、新宿、池袋、渋谷といった私鉄のターミナル駅を擁する街が勢いを増していきます。相対的に銀座は地盤沈下していきました。それを救ったのが、欧州ブランドの路面店だったと言えます。海外旅行が一般化し、海外ブランドが人気を博していました。地盤沈下で経営が悪化した老舗の跡地が、ブランドの旗艦店へと変わっていき、銀座は、これまでとは異なる輝きを獲得します。それが爆買中国人を引きつけることにもなりました。
銀座は、夜の街としての顔も持ちます。戦後から50年代中頃までは、文化人や政治家が集う夜の社交場でした。それが高度成長期からは、接待中心の社用族の街へと変わり、文化人たちは「銀座も変わったもんだねぇ」と嘆きながら去って行きました。バブル崩壊後、接待の街には新宿等からキャバクラ系の店が進出してきます。そもそも交際費を減らされていた社用族は「銀座も落ちたもんだねぇ」と嘆きながら去って行きました。社用族の端くれだった私も、同様の印象を持っていますが、ただ、それはそれで、新しい時代の流れを取り込んで変貌していく銀座の本質だとも思えます。新旧が混在する街銀座ですが、これからも”高級”ではなく”上質”という言葉を大事にしていってもらいたいものだと思います。(写真出典:kodokei.com)