監督:ドミニク・クック 2021年イギリス・アメリカ
☆☆☆+
キューバ危機の際、重要な役割を果たした実在のスパイを描いた映画です。クーリエとは、外交文書を本国と在外大使館の間で運搬する業務、あるいはそれを行う人を指します。近年では、国際宅配便などもクーリエと呼ばれます。新たな大物情報提供者としてソヴィエト政府高官を確保したMI6とCIAは、担当クーリエとして、東欧への出張が多く、かつ政府とは無関係な英国人ビジネスマンをリクルートします。諜報機関が注目しそうにない人材が選ばれたわけです。二人の接触は順調に展開し、ソヴィエトがキューバに運び込んだミサイルの情報に至ります。その情報は、キューバ危機回避に、大いに貢献することになります。ただ、キューバからミサイルが撤去される直前、二人は、モスクワで、当局に逮捕されます。ソヴィエト政府高官は処刑され、クーリエは、KGB のルビャンカ刑務所に2年収監された後、捕虜交換で英国に帰国しています。実に興味深い歴史的エピソードですが、映画に仕立てるには難しい題材だと思います。緊張感は演出できても、ストーリーとしての盛り上がり、あるいは映画的な広がりを確保するのは、結構、ハードルが高いと思います。ところが、本作は、その難易度の高い題材を、そつなく見事なエンターテイメントに仕上げています。英国映画界の職人芸を見せつけられた思いです。テンポの良い展開と演出、ヒリヒリとする緊張感、役者たちの達者な演技、そしてキューバ危機と逮捕を山場として成立させた脚本等、見事なものです。
それもそのはずです。監督のドミニク・クックは、本作が2作目ながら、元々は英国演劇界を代表する重鎮です。いわばドラマ作りの達人だったわけです。派手なアクションや映画的ギミックに一切頼ることなく、真っ正面からドラマを作り、かつエンターテイメントとして成立させています。クーリエ役のベネディクト・カンバーバッチは、英国王室の血を引く名優ですが、戸惑いながらも気骨を見せるといういい演技をしています。情報提供者役のメラーブ・ニニッゼは、グルジアの役者ですが、存在感のある演技で映画を引き締めています。いい人を選んだものです。監督が舞台の人とは言え、決して舞台くさい映画にはなっていません。映画としてのパースペクティブをよく心得た演出と映像だと思います。
実際、クーリエを行ったグレヴィル・ウィンは、捕虜交換で帰国後、実業に戻り、1990年、70歳で亡くなっています。コードネームHEROと呼ばれたオレグ・ペンコフスキーは、GRU(ソ連軍参謀本部情報総局)大佐であり、西側が確保した最も高位のスパイだったそうです。彼の情報は、機密度の高い超一級品ばかりであり、東西冷戦の方向を変えたとまで言われているようです。ペンコフスキーは、抱き込まれたのではなく、自らアメリカと接触して、情報提供者になっています。KGB上層部は、早くからペンコフスキーがスパイであることを知っていましたが、KGBが英国のMI6上層部に確保しているスパイを守るために、あえて泳がせていたようです。まさにスパイ戦における虚々実々の駆け引きということです。ただし、本作は、そのあたりに一切触れていません。ジョン・ル・カレの小説ならともかく、実話であり、テーマを絞り込むという観点からは大正解だったと思います。
同様に、映画のハイライトに据えられたキューバ危機についても、そつなく、あっさりと描かれています。人類滅亡の直前までいったキューバ危機ですから、下手に踏み込むと大変なことになってしまいます。深い入りしないという本作の描き方は、これまた大正解だったと思います。キューバ危機といえば、ジョン・F・ケネディとニキータ・フルシチョフばかりが注目されます。ただ、実際には、ペンコフスキーやウィンのようなスパイはじめ、多くの人々が関与し、かつ重要な役割を果たしていたわけです。歴史は、名を残すこともない多くの実務家たちによって動かされていることを、あらためて思い起こさせる映画でした。(写真出典:eiga.com)