2023年6月3日土曜日

裏の帝王

甘粕正彦
旧満州国の青写真を描いたのは、帝国陸軍きっての天才とも、異端児とも言われる石原莞爾ということになります。その著作「世界最終戦論」(1940)は、東洋の盟主としての日本と西洋の代表たるアメリカの最終決戦を予言しています。満州国建国も東亜結束のため、つまり対米戦の備えの一環でした。ただ、石原が満州国に抱いた夢は、東洋のアメリカを作ることであり、満州国のキャッチフレーズ「王道楽土」・「五族協和」は、石原が真に理想としたところでした。しかし、石原が去った満州は、野望と陰謀渦巻く植民地へと変貌していきます。そこで実権を握ったのは”弐キ参スケ”と呼ばれる関東軍参謀・東条英機、国務院総務長官・星野直樹、満業社長・鮎川義介(日産総帥)、総務庁次長・岸信介、満鉄総裁・松岡洋右でした。

商工省のエリート官僚だった岸信介は、満州に渡ると「産業開発5ヶ年計画」を展開し、徹底的な計画経済体制を築きます。後に「昭和の妖怪」と呼ばれた岸信介ですが、満州時代は、その影響力の大きさから「表の帝王」とも呼ばれたようです。表があれば、裏もあるわけで、裏の帝王と呼ばれる人物も存在しました。甘粕正彦です。1923年9月に発生した関東大震災の直後、東京憲兵隊麹町分隊長だった甘粕大尉は、下位者とともに、アナキストの大杉栄、伊藤野枝、大杉の6歳の甥の3人を拉致・殺害し、死体を古井戸に遺棄します。いわゆる甘粕事件です。犯行は、自供に基づき甘粕大尉の単独犯行とされ、禁固十年の判決を受けます。しかし、不可思議な点も多く、上層部による指示が疑われています。

収監から3年後、甘粕は恩赦で出獄、翌年には、妻とともにフランスへ留学します。留学資金は、すべて陸軍から出されています。日本へ帰国すると、満州へと渡り、国家主義者の大川周明が主宰する東亜経済調査局に所属します。この組織は、南満州鉄道、いわゆる満鉄の調査機関としてスタートし、一旦独立しますが、後に、日本最高のシンクタンクとも言われる満鉄調査部に統合されています。満州での甘粕は、関東軍参謀の板垣大佐、石原中佐と接触し、奉天特務機関長・土肥原大佐の下に軍外の特務実行部隊として甘粕機関を作ります。満州事変のきっかけとなった柳条湖事件が起こると、甘粕機関は、ハルピン出兵の口実作りのテロ、あるいは関東軍の暴走を警戒する日本政府が厳重に警戒するなか、愛新覚羅溥儀を天津から脱出させる任務等をこなします。

存在感を増す甘粕は、それを疎ましく思う関東軍参謀部との間に溝ができ、むしろ日本政府・岸信介ラインと接近します。岸信介の満州国運営は、能吏としての力量だけでなく、金も使う政治家的手法だったようです。その資金を提供していたのが甘粕だとされます。甘粕は、満州におけるアヘン売買を一手に握り、ロンダリングした利益を岸信介に上納していたようです。1939年、甘粕正彦は、満州映画協会、いわゆる満映の理事長に就任します。岸信介が、甘粕の功に報いた人事と言われます。理事長としての甘粕は、すこぶる評判が良かったようです。終戦を迎えると、甘粕は青酸カリを飲んで自殺しています。一方、岸信介は、A級戦犯として収監されるも不起訴となり、サンフランシスコ講和条約締結で公職追放も解除され、政治の世界へと入っていきます。

同じく帝王と呼ばれながらも、象徴的な違いが出ることになったわけです。甘粕正彦の半生は、統帥権干犯を盾にとって暴走する帝国陸軍を象徴しているかのようです。大杉栄殺害の罪を一身に背負うことで主君を守り、その後も城外で主君のために汚れ仕事をこなし、また主君もそれに応えて処遇するという構図は、まさに封建社会そのものです。滅私奉公を旨とする武家文化そのものです。武力による支配を本質とする武家政権の時代は、平安末期における平家の台頭に始まり、太平洋戦争敗戦の時まで続いたわけです。さらに言えば、戦後、高度成長期の企業風土にも、その文化は受け継がれました。ちなみに、甘粕家は、川中島の戦いで武勲をあげた上杉家家臣の家系です。(写真出典:ja.wikipedia.org)

マクア渓谷