2023年6月24日土曜日

プロテスト・ソング

岡林信康
大阪では、40年以上、中之島のリーガ・ロイヤル・ホテルを定宿としてきました。大阪を代表する老舗中の老舗ホテルですが、会社の関係があり、リーズナブルに泊めてもらえました。1980年代の初め、ホテルの玄関でタクシーに乗り、釜ヶ崎を見てみたい、と頼みました。釜ヶ崎は、あいりん地区とも呼ばれる西成のドヤ街です。東京の山谷と並ぶ日雇労働者と浮浪者の街です。運転手さんからは、勘弁してくださいと断られましたが、結構なチップを提示したところ、ちょっとだけですよ、と言って連れていってくれました。事前に、窓を開けるな、住民たちと目を合わせるな、と厳重に注意されました。朝10時頃のことですが、街には酔っ払いがあふれ、道に倒れている人までいました。3階建て程度の高さの木賃宿は、部屋の天井を低くすることで5階建てになっているようで、目がおかしくなりました。 

興味本位と非難されそうな行動ですが、日本の現実を見たいという思いがありました。そして、その背景には、いつまでも耳に残る岡林信康の「山谷ブルース」がありました。岡林は、日本を代表する希代のシンガー・ソング・ライターだと思います。特に、デビュー当初の1960年代末期は、数々のプロテスト・ソングの名曲を発表し、”フォークの神様”と呼ばれました。当時の曲の多くは、発売禁止、あるいは放送禁止とされました。ジャズ・ファンの私には縁遠い世界でしたが、行きつけのレコード屋で、岡林の存在を知り、衝撃を受けました。山谷・釜ヶ崎の存在、被差別部落問題、貧困問題も岡林の曲で知ることになりました。世界的なカウンター・カルチャーの流れのなかで、日本のタブーにも目を向けた岡林の曲は、とても新鮮に聞こえました。

一つのジャンルとして、あるいは文化的運動としてのプロテスト・ソングは、フォーク・ソング・ベースのウディ・ガスリー、ピート・シーガー、ボブ・デュラン、ジョーン・バエズ等々の音楽を指します。ただ、大衆的な音楽にとって、プロテストは普遍的なテーマの一つだと思われます。典型的には社会を風刺した唄として現れ、その歴史は、とてつもなく古いと思われます。60年代のいわゆるプロテスト・ソングは、カウンター・カルチャーの一つの態様であり、ヒッピー的な服装と同様、ファッションだったように思います。日本のプロテスト・ソングの嚆矢は、中川五郎、高石ともやということになるのでしょう。ボブ・デュランの曲をベースに二人が作詞・作曲、高石が歌った「受験生ブルース」は、1968年に大ヒットしました。

1969年、世を変える力を持たないプロテスト・ソングの限界を感じ、増幅する自分のカリスマ性を負担に思った岡林は、一時、雲隠れします。数ヶ月後、ステージに戻った岡林は”はっぴいえんど”をバックに、ボブ・デュラン風ロックを披露します。その後、数年間、岡林は山中で農耕生活に入ります。再び活動を開始した岡林は、つきものがとれたかのように奔放に音楽を展開します。演歌にハマって美空ひばりとコラボしたり、ニューミュージック風のアルバムを発表したり、あるいは民謡とロックを融合させたりしました。岡林の音楽変遷は、時代の変化そのものでもあります。70年安保闘争に敗北した若者たちは、目的を失い彷徨い始めます。フォークは、プロテストを失い、ただのポップに成り下がりますが、皮肉にもフォーク・ブームを起こします。まさに、歌は世に連れ、世は歌に連れ、というわけです。

高度成長、あるいは社会の構造的変化が生んだひずみと言える釜ヶ崎では、1961年以降、20数回、暴動が発生しています。ただ、景気低迷期に暴動は発生していません。日雇労務者は、仕事にあぶれると福祉や支援に頼らざるを得ないからなのでしょう。現在、釜ヶ崎周辺は、再開発されつつあります。西成は、交通の要所にも関わらず、治安の悪さから開発が遅れてきました。梅田から新今宮をつなぐ新線が2031年開通を目指して工事中であり、大阪市は特区構想を進め、星野リゾートのホテルも開業しました。日雇労務者の高齢化が進んだ釜ヶ崎は福祉の街になり、木賃宿も若いインバウンド旅行者向けのゲストハウスに変わりつつあるようです。都市は、闇の部分を持つから成立している面があります。釜ヶ崎は、様々な事情を抱えた人々のラスト・リゾートでした。それが不要な時代になったとは思えません。(写真出典:amazon.co.jp)

マクア渓谷