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死の舞踏 |
キリスト教以前の古代のメメント・モリは、”明日は分からない”、あるいは”今を楽しめ”という意味で使われていたようです。古代ローマでは、凱旋パレードに際して、将軍が背後に使用人を控えさせ、”今日は絶頂だが、明日は分からない”という意味で、メメント・モリとささやかせていたと言います。絶頂にあっても自惚れることなく、気を引き締めようとしていたわけです。一方、享楽的な”今を楽しめ”の背後にはペシミズムがあります。死に対する典型的な向き合い方の一つだと思います。11世紀ペルシアの天文学者にして詩人だったウマル・ハイヤームの「ルバイヤート(四行詩)」が最も有名かもしれません。ひとときの命ゆえ、飲めよ、歌えよ、というわけです。
古代のメメント・モリが、現世に関わる警句だったのに対し、キリスト教では、来世を意識させる言葉となっていきます。つまり、死を思えば、この世の栄華も名誉も空しいものに過ぎない、よって死後の天国と地獄を意識せよ、という意味になります。中世になると、死を象徴する骸骨が、イメージとして絵画や墓石などに多用されていきます。ことに有名なのが「死の舞踏」ということになります。身分や貧富の差も関係なく、すべての人が、骸骨や死者と共に踊るというモティーフです。もともとは14世紀フランスの詩が起源と言われ、現世の空しさ、天国と地獄というキリスト教の死生観に加え、百年戦争やペストの大流行を背景とする中世的な終末感が大流行につながりました。
キリスト教の死生観におて、重視されるのが”復活”という考え方です。最後の審判が下される時、永遠の命を授かる者と地獄の業火に焼かれる者とに分けられるというものです。ユダヤ教、イスラム教にも共通する思想であり、それゆえ火葬は行われません。火葬を行うインド系では、肉体と魂は別ものであり、魂は”輪廻転生”していきます。バラモン教、ウパニシャッド哲学、ヒンドゥー教と受け継がれ、仏教にも反映されます。古代エジプトの死生観も、中核を成すのは復活ですが、一神教とは異なり、死後の世界で復活して、生前と変わらぬ生活を送るというものです。いずれにしても、宗教の世界では、死後の世界を前提として、現世での生き方を諭しているわけです。現世というところは、仏教的に言えば”一切皆苦”ゆえ、来世を信じることが大事だったのでしょう。
メメント・モリの、近代的で、かつ肯定的な解釈は、死ぬことは避けられないのだから、今、この時を精一杯生きよう、ということだと思います。いまや巨匠となったクリストファー・ノーラン監督の出世作「メメント」(2000)は、ショート・メモリー症の男を主人公に、真逆のタイムラインが交差するという知的で不思議な映画でした。”メメント”は”忘れるな”という意味ですから、映画のプロットをストレートに表しています。ただ、監督の弟が書いた原作のタイトルは「メメント・モリ」でした。ラスト・シーンで、主人公は、世界は実在するのか、と自問し、実在する、そして記憶は自分を確認するためにある、と独白します。これが近代的な、実存主義的なメメント・モリなのかも知れません。(写真出典:weblio.jp)