2021年9月1日水曜日

貴妃とライチ

数年前の春、上海へ行った際、露天の果物屋に生のライチがたくさん並んでいました。生のライチは、最近、日本でも食べられるようになりましたが、かつては冷凍ものがほとんどでした。うれしくなって、何度か買って食べました。瑞々しく、上品な甘い香りが際立って、とても美味しくいただきました。ライチは、私の最も好きなフルーツです。中国原産の茘枝(レイシ)の実ですが、唐の楊貴妃が愛したフルーツとしても有名です。楊貴妃は、数千キロ離れた中国南部から、早馬を仕立てて、長安の都まで運ばせたといいます。

ライチは、楊貴妃のイメージによく合います。楊貴妃こと楊玉環は、719年6月22日、現在の山西省に生まれます。類い稀なる美貌で知られ、15歳のおり、玄宗皇帝の十八子である李瑁の妃となります。5年後、楊貴妃を見初めた玄宗は、一旦、彼女を女道士として出家させたうえで、後宮に迎い入れます。いかに皇帝とは言え、さすがに、直接、息子の嫁を奪うことは憚られたのでしょう。後宮三千人と言われた玄宗のハーレムに入った楊貴妃は、皇帝の寵愛を一身に集め、皇后と同等に扱われます。また、彼女の一族も、宮廷で重用されていきます。玄宗は、唐の絶頂期を築きますが、楊貴妃を迎えてからは、政務が滞ったとされます。

そのなかで、安禄山とその家臣史思明による安史の乱が起こり、唐は衰退していきます。安史の乱の原因が、楊貴妃の一族である楊国忠と安禄山が宰相の座を争ったためとされることから、楊貴妃は、唐を滅ぼした悪女とも言われます。事実無根とまでは言いませんが、やや楊貴妃に厳しい見方のように思います。楊貴妃を喜ばせようと一族を登用したのは玄宗であり、楊貴妃が仕掛けて権勢をふるったわけではりません。ソグドと突厥の混血である安禄山は、優れた軍人であると同時に、権力欲が強く、裏表のある人だったようです。楊国忠は、安禄山に謀反の恐れありと玄宗に訴えますが、当然の務めとも思えます。楊貴妃が責められるべきは、その美しさだけかも知れません。

安禄山の軍が長安に迫り、玄宗は都を捨てて逃げます。楊国忠は唐軍に殺されます。臣下から楊貴妃の処刑を求められた玄宗は、やむなく楊貴妃に自殺を請います。楊貴妃は、 国の恩に背いたので恨むことはない、と言って潔く死んだとされます。玄宗の歓心をかうために楊貴妃の養子にもなったていた安禄山は、楊貴妃の死を聞き、数日間、泣いたとも言われます。後世、ここまで楊貴妃が有名になったのは、華やかな宮廷生活と非業の死というドラマチックな人生がゆえなのでしょうが、それを伝えた白居易の「長恨歌」によるところが大きいと思います。”比翼の鳥”、”連理の枝”という、いずれも男女一体を象徴する言葉とともに、広く愛されました。

楊貴妃の名前は、花の名前にも残っています。桜、梅、牡丹には、楊貴妃という品種があり、いずれもピンクで艶やかでふっくらとした花が特徴です。当時の文献や美の基準からして、楊貴妃は、ふっくらとした体形だったようです。その名がつけられた花にも通じるところがありそうです。ちなみに、中国では、楊貴妃は牡丹の花神としても知られるようです。また、楊貴妃が愛したフルーツは、ライチの他にもありました。不老不死の薬ともいわれる「蟠桃」という平たいピンクの桃です。楊貴妃は、その強い香りを愛したと言われます。日本でも栽培、出荷されていますが、栽培が難しく、希少価値が高いようです。(写真出典:amazon.co.jp)

マクア渓谷