2021年9月11日土曜日

9.11

9.11同時多発テロ発生から、20年経ちます。9.11は、3.11東日本大震災とともに、自分の人生の中で、最も衝撃を受けた日かも知れません。その場にいたわけではありませんが、かつて住んだ街で、しかも仕事でよく出入りしていたワールド・トレード・センターが崩れる映像は、とてつもない衝撃でした。その犠牲者数の多さに震えました。また、その後の喪失感も大きいものがありました。その後、グランド・ゼロを訪れる機会がありましたが、10年を経て、なお現実感に欠けるような印象を持ちました。既にオサマ・ビン・ラディンは殺され、この8月をもって、最後の米軍もアフガンから撤退し、アメリカ史上最長の戦争は終わりました。

1980年正月早々、私は、トランジットでモスクワ空港に立ち寄りました。すると機内待機が命じられ、カラシニコフを持った兵士たちが乗機し、通路に立ちました。アフガン侵攻直後のソヴィエトは、極度の緊張状態にあったわけです。1978年、アフガンに共産党政権が誕生すると、各地の反政府ゲリラは、ジハード(聖戦)を宣言し、ムジャーヒディーン(ジハードを遂行する者)を称します。翌79年末には、ソヴィエトが軍事介入します。ジハードは、イスラム社会に侵入してきた異教徒との戦いであり、ウンマ(イスラム共同体)を守るムスリムの義務でもあります。ジハードで戦死したムジャーヒディーンには天国が約束されます。ムジャーヒディーンには、アメリカから大量の武器と資金が供与され、イスラム各国から多くの義勇兵も参戦します。サウディの大富豪の息子オサマ・ビン・ラディンも、その一人であり、潤沢な資金を投じて、義勇兵の組織化や訓練に、中心的役割を果たします。

ビン・ラディンは、近代的教育を受けて育ちますが、次第にイスラム原理主義のムスリム同胞団に傾倒していきます。サウディアラビア自体が、サウディ家と原理主義のワッハーブ派によって建国された国であり、より過激な原理主義への傾倒は自然だったのかもしれません。ムスリム同胞団は、1920年、エジプトで、近代化・西洋化に反対し、シャリーア(イスラム法)に基づく国作りを求めて組織化されます。その思想的中核を担ったサイイド・クトゥブは、ジハードにより真のイスラム国家の建設すべきと主張します。ビン・ラディンは、クトゥブの思想に最も影響を受けたとされます。その思想からすれば、パレスティナを占拠するイスラエル、湾岸戦争でアラブに派兵したアメリカは、排除すべき異教徒であり、両国とのジハードを戦うことは、ムスリムの義務です。

10年に及んだソ連軍の侵攻が、事実上、ムジャーヒディーンの勝利に終わると、ビン・ラディンは、自身が組織した軍事組織アル・カイーダとともに、イスラム世界のヒーローとなり、その思想と行動は、より先鋭化します。1990年、イラクがクウェートに侵攻するとアメリカを中心とした多国籍軍が、サウディアラビアに集結し、湾岸戦争が起こります。ビン・ラディンは、マッカとマディーナという聖地を擁するサウディに異教徒アメリカを入れるな、と国王に掛け合いますが、拒否されます。サウディを追放されたビン・ラディンは、拠点を移したスダーンからも追放され、かつての同胞タリバンが支配するアフガンへと移ります。この間、アル・カイーダは、世界貿易センター爆破事件、ナイロビとダルエスサラームのアメリカ大使館爆破事件、アデンでの米艦襲撃事件と対米テロを続け、ついに9.11へと至ります。

テロとは、概ね、政治的目的を達成するための暴力的手段と捉えることができます。タリバンや他のイスラム原理主義が目指すものは政治的である以上に宗教的です。近代化を進めてきた欧米が、それを理解することは難しいように思えます。ジハードの構図からして、アメリカが得意とする武力制圧は、ヴェトナムと同様の泥沼しか生みません。それが、アフガンにおけるアメリカの20年だったと思います。それにしても、イラクによるクウェート侵攻の際、なぜアメリカは、あれほど早く派兵を判断したのでしょうか。イラク戦争の際も、大量破壊兵器の存在とアル・カイーダとの関係を理由に、異様な早さで派兵を決めました。しかし、大量破壊兵器は存在せず、そもそもビン・ラディンとフセインは不仲でした。イスラエルの強い要請があったのかも知れませんが、やはり石油との関連を疑ってしまいます。(写真出典:news.postseven.com)

マクア渓谷