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日活「河内山宗俊」 |
茶坊主は、室町時代、僧侶が武士に茶の湯を指南したことが始まりと聞きます。以降、武家において、茶、食事、身の回りを世話する接待係として定着したようです。僧侶ではありませんが、剃髪し、僧衣を着用したことから、坊主と呼ばれました。武家の少年たちが、厳しく礼儀作法をたたき込まれたうえで、奉公したものだそうです。職務柄、城内の奥まで入り、機密事項に触れる機会もあったので、厳選された武家の師弟が登用されたのでしょう。身分は高くないものの、主君や上層部の側に仕えるため、その発言には一定の影響力があったようです。そうなると、おもねる者も現れ、本人も勘違いして、横柄に振る舞うということがあったようです。
最も有名な茶坊主は、江戸後期、江戸城で将軍や幕臣の世話をした数寄屋坊主の河内山宗俊ということになります。幕末の講釈師松林伯円の「天保六歌仙」のなかで、義賊的な面も持つ悪党として描かれ、人気を博します。明治以降、多く芝居や映画の題材にされています。実態は、ただの悪党だったようです。腹黒で有名な幕臣・中野清茂、隠居後は碩翁と称しますが、その後見を得て、好き放題やっていたようです。そもそも中野碩翁は、見目美しい少女を3人養女にして、すべて大奥に入れることで将軍の歓心を買い、出世したという人です。将軍に近いことから、賄賂を取りまくり、大名顔負けの豪奢な暮らしぶりを送ったと言われます。師匠が師匠ですから、河内山宗俊の行状も、推して知るべしです。
講談「玉子の強請」は、宗俊の小悪事の話です。宗俊は、身分を隠して、乾物屋で玉子を買います。亭主の見てぬ間に、持参のゆで卵を生玉子の山の上に置き、亭主が見ている前で、それを袂に入れます。怒った亭主は、返せと言います。これは自分の玉子だ、いや俺は見た、という押し問答のうえ、宗俊は、袂の玉子を床に投げつけます。ここで、宗俊は、わしを盗人呼ばわりしたな、わしを誰だと心得る、と出るわけです。宗俊は、百両をせしめて店を出ます。百両とは、やや大げさですが、分かりやすい宗俊のイメージです。悪事を重ねるうちに、より大胆になり、より勘違いも激しくなった宗俊は、あろうことか大名をも恐喝するようになります。それも相手が悪い。松平出羽守邸や水戸徳川家邸でも恐喝をはたらき、ついには捕縛され、獄死しています。
かつて、企業にも茶坊主と蔑まされる人々がいました。一般的には、秘書部長や社長室長といったポストで発生しやすいわけですが、人事の常識としては、そういったポストには在任年数のリミットを設けます。ただ、実際に茶坊主が発生するのは、いわゆるワンマン社長が、自ら取り巻きを作るケースです。本来、長たる者は、孤独であるべきです。ただ、ワンマンと呼ばれるような人は、取り巻きを作りたがる弱さがあります。中野碩翁と河内山宗俊の関係も、同じだったのでしょう。宗俊の大名への強請の裏には、中野碩翁がおり、宗俊はトカゲの尻尾だったと考えられます。ちなみに、碩翁は、水野忠邦の天保の改革の際、賄賂がとがめられ、登城禁止、加増地没収のうえ、自邸に幽閉されています。(写真出典:nikkatsu.com)