2021年9月3日金曜日

近江屋事件

龍馬記念館近江屋復元
1867年12月10日、京都河原町の醤油問屋・近江屋で、坂本龍馬と中岡慎太郎が襲撃され、命を落とします。突如襲われた二人は、刀を抜くこともできず、鞘で応戦します。近江屋の二階は天井が低く、刀が抜きにくかったともいわれます。龍馬は額に受けた深手で即死。慎太郎は、一命を取り留めたものの、2日後に亡くなっています。高知の坂本龍馬記念館で、事件のあった部屋に掛けられていた掛け軸を見たことがあります。竜馬のものとされる血が、斜めに飛び散るという生々しいものでした。

世の中には、”維新好き”という人たちが少なからずいます。神戸を代表する企業で、社長・会長を歴任された方も、その一人でした。ある晩、食事をしながら、竜馬を殺したのは誰か、というお話を承りました。後日、関連図書まで送っていただき、勉強させてもらいました。実行犯にも、黒幕にも、諸説入り乱れ、いまだに議論があります。証言も多くありますが、微妙な食い違いも多く、混沌としています。ただ、当事者による有力な証言もあり、京都見廻組が実行犯であるという説が有力とされます。見廻組は、幕府が組織し、京都守護職の会津藩主・松平容保の配下にあった組織です。

事件発生当初は、中岡自身の見立てもあり、また現場に残された刀の鞘の特徴から、新選組説が有力だったようです。しかし、近藤勇の処刑直前の尋問、他の文献や証言からも、これは否定されています。海援隊は、 いろは丸事件の遺恨から、和歌山藩士が暗殺したのではないか、 という疑念を持ち、 襲撃までしています。 しかし、1870年に至り、箱館戦争で捕虜となった元見廻組の今井信郎が、 与頭の佐々木只三郎以下6名の見廻組で近江屋を襲った、 と供述します。今井の供述には、他の目撃情報や物証と矛盾する点もありました。見廻組の多くは、鳥羽伏見の戦いや戊辰戦争で戦死していましたが、今井は、生存している者に累が及ばないように気遣って供述していたようです。

実行犯は見廻組だとしても、誰が、なぜ命じたのかについては、まだ不明な点があります。彼らの上司であった小笠原長遠は、関与を強く否定しています。佐々木只三郎が、生前、京都所司代・松平容保の指示だと語っていたという記録もあります。当時の政治的状況は、目まぐるしく動いており、大政奉還を実現した龍馬に恨みを抱く者もおれば、徳川慶喜を含めた龍馬の新政権構想に反対する者もおりました。最も人気がある説は、薩摩藩による陰謀説です。幕末における薩長のねらいは、あくまでも打倒徳川であり、龍馬の新政権構想は許容できるものではありませんでした。また、トーマス・グラバー陰謀説もあります。内戦が勃発し、武器が売れないと商売にならないジャーディン・マセソン商会にとって、龍馬の案は好ましくなかったわけです。

三条河原町の池田屋事件跡地には、チムニーが経営する居酒屋チェーンはなの舞いの「池田屋」があります。あまりにも面白いので、一度行ったことがあります。何があるわけではありませんが、”池田屋”で飲むというところが気に入りました。現在、近江屋の跡地には”かっぱ寿司”があります。不謹慎かもしれませんし、また種々の制約もあるのでしょうが、幕末居酒屋「近江屋」くらいにしたら、より身近に幕末の京都を感じられると思います。一番のお薦めメニューは、当夜、龍馬が食べそこねた「軍鶏鍋」で決まりです。軍鶏は「とり新」で仕入れてもらいたいものです。(写真出典:tripadviser.jp)

マクア渓谷