2021年9月17日金曜日

南蛮貿易

オランダ東インド会社ロゴ
鉄砲は、1543年8月、種子島に漂着したポルトガル船によって、日本に伝来したとされます。実は、ポルトガル船ではなく、倭寇の王直の船であり、ポルトガル人も乗船していたというのが真相です。結果からすれば、大きな違いとは言えないのでしょうが、倭寇の船だったことが、当時のアジアの状況を、よく物語っているように思います。種子島以降、日本とポルトガルの貿易、いわゆる南蛮貿易は、100年近くに渡って続けられました。鉄砲をはじめ、ジャガイモ、カボチャ、トウモロコシ等の農作物、パンやカステラ、あるいはタバコ・めがね等が日本に伝えられました。

1498年、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマは、喜望峰を回って、インドのカリカットに到達します。ポルトガルは、当地で香辛料貿易を一手に担っていたイスラム商人たちを武力で駆逐し、ゴアに貿易拠点を築きます。欧州では、オリエント・ヴェネツィア・ルートが衰退し、リスボン・アントワープ・ルートが香辛料貿易の中心になっていきます。南インドを追い出されたイスラム商人たちは、マラッカを新たな拠点とします。ポルトガルは、これをも襲い、イスラム商人を皆殺しにして占拠します。さらにポルトガルは、マカオに進出し、対明貿易を開始しますが、倭寇対策として禁止されていた日明貿易に関しても、中継貿易として担っていきます。明からは、生糸・絹織物等、日本からは主に銀が輸出されました。

当初、明朝や琉球は、ポルトガルによるマラッカ占拠という蛮行を知っていたので、ポルトガルとの交易を拒否します。ポルトガルのマカオ進出で大きな役割を果たしたのは、イエズス会でした。当時、プロテスタントに押され収入減を余儀なくされたカソリックは、新たな収入源として、アジアでの信者獲得に乗り出しました。それを担ったのが、イエズス会のフランシスコ・ザビエルでした。ポルトガルのアジア進出は、武力と宗教という両面作戦によって成されたと言えます。ザビエルは、日本人を、名誉と礼儀を重んじ、武器を大事にする好戦的民族であり、アジアのなかで最高の国と評します。これを受け、ポルトガルは、武力制圧ではなく、宣教をもって浸透する戦略を取ることになります。

しかし、この作戦は、秀吉、家康による禁教令によって、裏目に出ます。基本的には、イエズス会が、体制に組み込まれることを拒否したために行われた禁教令ですが、裏では、日本貿易に参入したいイギリスとオランダというプロテスタント勢によるプロパガンダも奏功しました。つまり、ポルトガルによる日本制圧という野望が喧伝されたわけです。結果的には、家康がヤン・ヨーステンを気に入ったこともあり、オランダが独占的地位を獲得します。ヨーロッパにおける宗教対立が、極東でも繰り広げられたというわけです。後に、資本主義を生み出し、世界経済を席巻することになるプロテスタントのカルヴァン派が、日本でも勝利したことは、歴史の必然だったのかも知れません。

異端は、正統を批判することから生まれます。現代風に言えば、プロテスタントは、原理主義者です。イエスと聖書から遠く離れてしまったかのようなカソリックに対して、プロテスタントは、原点回帰を叫びます。カルヴァンは、神による救済は、あらかじめ決まっているという予定説を唱えます。つまり、カソリック教会への金銭的貢献による救済などを否定したわけです。神による救済の対象になるためには、禁欲的に生活し、勤勉に職業を全うすることが重視されます。そこで得た利益は、教会に寄進するのではなく、事業の拡大に使われることが認められたわけです。江戸期の安定や経済発展に、カルヴァン派の思想が影響したとは思えませんが、カルヴァン派のオランダとだけ交流を続けていたことは、実に興味深いことだと思います。明治期の爆発的な近代化に、なにがしかの貢献があったのではないかとも思えます。(写真出典:ja.wikipedia.org)

マクア渓谷