17時頃、風雨が弱まり、青空も見えてきます。台風の目が通過していると思われました。想定より早く台風が通過中であり、天候の回復は早いと判断した近藤船長は、18時30分の出航を決めます。しかし、それは台風の目ではなく、閉塞前線の通過であり、台風自体は、速度を緩め、渡島半島に接近中でした。当時、日本の気象観測は、まだ米軍頼りであり、もちろん、衛星による観測もありませんでした。札幌管区気象台は、台風が速度を落としたことを把握できていませんでした。18時39分、乗員乗客1,337名を乗せた洞爺丸は、函館港を出航します。しかし、防波堤を過ぎたあたりから、猛烈な風にさらされ、投錨して天候の回復を待たざるを得なくなります。
ほどなく、最大瞬間風速50mという暴風と高い波を受け、船は、走錨、つまり錨を引きずりながら、風に流され始めます。同時に、車両甲板、機関室への浸水が始まります。22時前後、左右のエンジンが停止し、近藤船長は、洞爺丸を、函館市西部に位置する遠浅の七里浜に座礁させ、転覆を回避する決断をします。洞爺丸は、海岸から数百メートルのところで、45度傾きながら座礁します。鉄道管理局は、救助船を出そうとしますが、暴風に阻まれます。依然、吹き付ける暴風に、船を支えていた錨の鎖が切れ、船は横転、積載していた列車も荷崩れを起こし、洞爺丸は、ついに転覆します。激しい暴風雨のなかで、救助はままならず、泳いで脱出した乗客も浜で息絶えたと言われます。
死亡・行方不明は1,155名、生存者は182名のみ。当時としては、サルタナ号、タイタニック号に次いで、史上3番目に大きい海難事故でした。事故の原因として、船長の天候に関する判断ミス、船体の構造的欠陥が指摘されています。船長の判断に、法令・規定違反はなかったものの、結果的には、台風の位置や速度に関する誤認がありました。判断ミスの背景に、当時、本州と北海道を結ぶ幹線であった連絡船を止めるわけにはいかないというプレッシャーがあったとも言われます。しかし、気象観測に基づくデータが乏しかったことは考慮されるべきかと思います。船体の構造に関しては想定外ということなのでしょうが、むしろ、船体の強度や構造に応じて、風速や波の高さ等に基づく運行停止基準が明確化されていなかったことの方が問題のように思えます。
洞爺丸事件を受けて、運行管理体制の見直しや船体構造の見直しも行われました。さらに、注目すべきは、これを機に、青函トンネル建設という議論が本格化していったことです。青函トンネルは、事件から7年後の1961年に着工され、1988年に開通しています。実に27年に及ぶ難工事でした。しかし、皮肉なことに、その時、鉄道は既に物流の主役の座から陥落していました。世界最長となる海底トンネンルの開通を、米国のニューズウィーク誌が”Tunnel to Nowhere”と揶揄していたことを覚えています。(写真出典:pinterest.jp)