とは言え、茶粥は、依然として奈良を代表する食文化です。日本を代表するクラシック・ホテルである奈良ホテルは、その朝食のメニューに茶粥を掲げます。ほうじ茶で炊いた茶粥は、香ばしく、上品な味わいがあります。ただ、塩分も控えめ、味もかすかなものです。奈良ホテルの朝食時のテーブルには、塩昆布と梅干しが置かれています。やはり、塩気と味が物足りないと思う客が多いのでしょう。茶粥の発祥ははっきりしないものの、粥自体は、文献上、8世紀の大仏建立時の記録にも登場するようです。茶粥が一般化したのは、鎌倉時代の寺院からだったとされます。一節によれば、茶箱の底に溜まりがちな茶粉を始末(節約)するために、茶粥が生まれたとも言われます。
近畿地方には、「大和の茶粥、京の白粥、河内のどろ食い」という言葉があるそうです。河内の粥は、ドロドロなのだろうと思われますが、対して奈良の茶粥はサラサラ系です。奈良では、番茶やほうじ茶を煮出し、そこに冷飯を入れて朝食に出すことが多く、熱いお茶漬けといった風情です。これを”入れお粥”と呼び、お茶で炊き上げたものは”揚げお粥”と呼ばれます。東大寺二月堂の修二会、通称”お水取り”は、堂舞台で火のついた松明を振り回す光景が有名です。修二会自体は、二週間に渡る苦行であり、食事は日に一度だけ。ただし、夜食として茶粥が出るのだそうです。炊いた茶粥の米だけを半分すくい、お櫃に入れます。これを”げちゃ”と呼び、食べる時には、その上に”ごぼ”と呼ばれる炊いた茶粥をかけるのだそうです。
恐らく、この修二会の茶粥が、簡素化されて、一般にも広がっていったのでしょう。そのせいか、朝の茶粥には、どことなくお寺さんの匂いがするように思います。そもそもお茶とお寺さんは切ってもきれない縁があります。お茶は、遣唐使たちが日本に持ち込んだようです。8世紀初頭には、天皇がお茶を僧に振る舞った記録があります。茶の栽培に関する伝承としては、最澄起源説をとれば甲賀の朝宮茶、空海起源説をとれば宇陀の大和茶が始まりとなります。しかし、長く唐に滞在した僧永忠が茶の種子を持ち帰ったのが本当の起源ではないかとされます。遣唐使の廃止とともに、一旦、茶は廃れますが、12世紀末、臨済宗の開祖・栄西が宋から茶の種子と文化を持ち帰り、茶の湯の文化が開花します。
茶粥の起源は判然としないものの、鎌倉期あたりに、寺院から広まったとみるのが妥当なのでしょう。ただ、不思議なのは、古くから茶粥を食べてきたのは、奈良県・和歌山県・三重県の一部であり、他の地域への伝播は、ごく限られています。粥自体は、古くから全国で食べられてきました。お茶も全国へ広がりました。想像するに、他の地域では、簡便で単純な茶漬けとして普及したのであって、奈良のような熱々のほうじ茶という香ばしさや手間に対するこだわりが抜け落ちていったのでしょう。その違いを生んだのは、大和の歳時記としてみじかな存在だった東大寺二月堂のお水取りの存在なのではなか、と思います。(写真出典:daiei.co.jp)