2022年10月23日日曜日

サンレモ音楽祭

ジリオラ・チンクェッティ
 1960年代の日本には、シャンソンとカンツォーネの大ブームが起きました。いずれも、単に「歌」を意味する言葉であり、それぞれ長い歴史を持ちますが、ここでは当時のポップスを指しています。つまり、フランスとイタリアの流行歌が、日本でもバカにうけたわけです。オリジナル曲が大ヒットし、カンツォーネは、本国イタリアのセールスを日本が上回る事態まで発生します。さらに、日本の歌手がカバーをリリースし、これも大ヒット。また、オリジナル曲を歌う歌手が、日本語ヴァージョンを発売し、これまた売れるという大ブームでした。カンツォーネ・ブームは、1959年、ミーナ・マッツィーニが歌った「月影のナポリ(原題:Tintarella di luna)」から始まったとされます。

「月影のナポリ」は、岩谷時子が詞をつけ、森山加代子とザ・ピーナッツがカバーし、大ヒットしています。面白いことに、原題にも歌詞のなかにも、一切、ナポリは登場しません。また、ミーナ・マッツィーニは言いにくいと思ったのか、日本では、単にミーナとクレジットされました。カンツォーネの輸入には、それなりの工夫もされていたわけです。1964年、ミーナ・マッツィーニは「Un Buco Nella Sabbia(砂に消えた恋)」をヒットさせ、弘田三枝子、伊東ゆかり、ザ・ピーナッツ等がカヴァーしています。ちなみに、ミーナ・マッツィーニと言えば、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「太陽はひとりぼっち」の印象的なテーマ・ソングも歌っています。

1964年になると、日本のカンツォーネ・ブームは、ジリオラ・チンクェッティとボビー・ソロの登場で勢いを増します。その年のサンレモ音楽祭で、16歳のジリオラ・チンクェッティは「 Non ho l'età(夢見る想い)」を歌い優勝します。そして、「Una lacrima sul viso (ほほにかかる涙)」を歌ったボビー・ソロも入賞します。この2曲が、日本でも、爆発的なヒットを記録します。以降、サンレモ音楽祭は、日本でも注目されことになり、テレビ放送まで行われました。なお、ボビー・ソロは、翌年に「Se piangi, se ridi(君に涙とほほえみを)」で優勝、さらにその翌年66年には、再びジリオラ・チンクェッティが「Dio, come ti amo(愛は限りなく)」で優勝しています。

サンレモは、イタリアの西部、モナコに近い地中海沿いにあります。1951年から、サンレモ音楽祭が開催され、1955年からは、イタリア全土に中継されるイベントになります。1958年の優勝曲「Nel blu dipinto di blu」が"Volare(ボラーレ)”の名で世界的にヒットし、音楽祭は勢いづきます。その後も、「チャオ・チャオ・バンビーナ」や「アルディラ」等のヒット曲を生み出していきます。しかし、1960年代も終わりに近づくと、イタリア経済の衰退とともに、規模は縮小されていきました。それと同時に、日本のカンツォーネ・ブームも廃れていったとされます。しかし、ブームの終焉は、イタリア経済が原因というわけではなく、世界的な時代の変化を受けたものだったと思われます。

甘いメロディやせつなく歌いあげるカンツォーネのスタイルは、混迷の60年代後期、そして世界が方向性を失った70年代にはそぐわないものになっていました。シャンソンも同様ですし、アメリカでは、モータウンも社会の変化に直面し、ブラジルでは、軍事政権下でボサノヴァの弾圧が行われます。パックス・アメリカーナ(アメリカによる平和)に陰りが見え始めると、日本のシャンソン・ブームも、カンツォーネ・ブームも消えていったわけです。ただ、サンレモ音楽祭は、今も継続されています。(写真出典:amazon.co.jp)

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