2022年10月15日土曜日

錦帯橋

日本三大名橋の一つ、岩国の錦帯橋は、その美しさ、技術力の高さで知られる五連のアーチ橋です。一度見てみたいとは思うものの、橋を見るためだけに岩国に行くことはないだろうとも思っていました。今般、厳島神社の観月能を見に行くついでに、足を伸ばしてみようと思いました。事前に、岩国出身の人に、錦帯橋だけ見て帰るつもりだと話すと、岩国城へ登りなさい、吉香公園を見なさい、いろり山賊で食事しなさいと言われました。その通りにしてみたところ、とても良い観光になりました。岩国の観光戦略は、誤解を生んでいるように思います。錦帯橋が有名すぎるので、錦帯橋しかないのかと勘違いしてしまいます。私のように、橋だけなら行かなくてもいいか、と思っている人も少なからずいるように思います。 

岩国と言えば、海軍と海兵隊が駐屯する米軍キャンプの街、瀬戸内工業地帯の一角を担う工場の街という印象が強く、錦帯橋だけが浮いた印象を持っていました。しかし、岩国を正しく把握するには、まずは城下町として認識すべきであることが、今回、よく分かりました。毛利一族の吉川広家は、関ヶ原の戦いのおり、東軍側につき、西軍の総大将である毛利軍を動かさなかったことで知られます。東軍の勝利を確信した広家は、毛利領安堵を条件に東軍につきました。この働きを評価した徳川家康は、広家に周防・長門2カ国を与えますが、広家は辞退します。結果、広家は、幕府からは大名として認められ、毛利藩内では家臣として岩国を治めるという複雑な状況に置かれます。幕府が認めた岩国城の建築でしたが、1615年の一国一城令によって廃城とされています。

岩国城の本丸は、低山ながら険しい横山の山頂に築かれました。現在の城は、1962年に再建されたものです。天守は、桃山風南蛮造の美しい姿を持ちます。足下には、城を囲むように蛇行する錦川が流れ、天然の外堀となっています。特筆すべきは、天守から眺望です。錦川、錦帯橋、岩国の街、瀬戸内海、宮島や四国までを一望できます。錦川と横山山頂の岩国城という景色は、ライン川の古城を思わせるものがあります。横山と錦川の間の狭い土地には、君主の平時の居館である土居が作られ、現在は桜の名所でもある吉香公園になっています。大きくはありませんが、吉香神社、錦雲閣などが配置され、風情のある良い公園です。そして、吉香公園から錦川を超えて城下へ至るには、錦帯橋を渡ることになります。

錦帯橋、蛇行する錦川、吉香公園、横山と岩国城、すべてが一体となって見事な景観を生んでいます。錦帯橋は、その一部として知られるべきだと思います。むしろ「岩国城」と言い切った方が、全体像を伝えられるのではないでしょうか。錦帯橋は、なぜアーチ構造にしたのか、ということが気になっていました。錦帯橋は、錦川の氾濫でも流されない橋を目指したようです。石組みの橋桁はもちろんのこと、流木等から橋を守るために、アーチが組まれたわけです。橋を下から見ると、その複雑な構造が見事であり、美しくもあります。3代目領主・吉川広嘉が餅を焼いている時、餅が反り返るのを見てアーチ橋という着想を得たとされます。建造の手本としたのは、杭州の西湖にかかる6連のアーチ橋だったようです。

錦川河口の岩国港は、江戸時代から整備されてきたようですが、大正期に入ると、帝人、山陽パルプ、東洋紡等の大型工場が進出し、工業化が進みます。戦時中は、陸軍燃料廠や海軍の潜水艦や航空隊の基地が設けられ、岩国は軍都になります。そして敗戦後、海軍の滑走路を利用して、進駐軍の航空基地が置かれることになりました。つまり、岩国は、城下町、工業都市、基地の街へと顔を変えてきたわけです。多様性を持つ岩国の街を作ったのは、錦川だったと言えるのかも知れません。なお、2012年には、岩国錦帯橋空港が、自衛隊・米軍との共用空港としてオープンしています。(写真出典:山口いいとこ大好き.club)

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