2022年10月18日火曜日

築地場外

築地市場が、豊洲へ引っ越してから、はや4年が経ちます。当時、場外市場は、どうなるのかと心配したものです。結局、豊洲へ越した店もありましたが、場外市場に残った店も多くありました。いつの頃からか、場外市場は、インバウンド客が殺到する東京名所になりました。コロナ前は、昼飯も食えず、まっすぐ歩くこともできないほど外国人で混み合っていました。過日、平日の昼時のことですが、ついでがあったので、久々に場外市場に寄り、まぐろ丼を食べ、店を冷やかしてみました。市場の移転や火災もあって、さすがに店の数は減っていました。ただ、少し戻ってきたインバウンド客も混じって、なかなかの人出でした。

築地は、名前のとおり、埋め立て地です。1657年、明暦の大火後の復興計画として、海が埋め立てられ、武家屋敷と横山町から本願寺が越してきました。後に築地市場となる場所は、寛政の改革で知られる老中・松平定信の下屋敷であり、隠居後、ここに浴恩園という庭園を築いたようです。浴恩園は、海水を取り込んだ広大な池が中心となっていたようです。東京都は、遺構が見つかれば、発掘調査を行うと発表しています。明治になると浴恩園周辺は、海軍が占有していたようです。1923年の関東大震災で、日本橋にあった魚河岸も焼失し、海軍省の土地を借り受ける形で築地市場がオープンしました。

築地は、大東京の食を支える市場として栄えていきます。場内市場は、仲買のための卸売市場ですが、小規模な仕入れのニーズに対応するため、隣接地に商店が広がっていきます。築地場外市場の誕生です。全盛期には、600を越す店舗がひしめいていたようです。現在でも大小400以上の店が営業しています。鮮魚に限らず、なんでも揃うのが場外であり、また飲食店も、鮨屋のみならず、ありとあらゆる業態が存在します。ある意味、食のテーマパークといった風情です。私が、一番好きだったのは、井上のラーメン屋ですが、2017年に店から出火し、現在も閉じられたままになっています。

聖路加国際病院とその東側一帯は、明石町となります。幕末、明石町には外国人居留地が作られました。しかし、明治の世になると、あたりの大名屋敷は遺棄され、大名を顧客と見込んで進出した外国商人たちは、横浜へと移っていきます。また、日本初のホテルである”築地ホテル”もオープンしますが、外国人の流出とともに、すぐに閉館したようです。その後、東京の近代化とともに外国人も戻り始めたようですが、相場師や麻薬業者も多く紛れ込み、治安の悪い土地になります。当局も、治外法権ゆえ、取締に苦慮したようです。結局、1899年の不平等条約撤廃とともに、居留地は閉鎖されました。

築地場外市場は、小口の仕入れ向け商店街なので、朝は早く、昼前には店じまいというパターンが基本でした。飲食店も、仕入れに来た人たちや市場関係者のための店でしたから、同様の営業時間でした。最近は、一般客や観光客が増え、市場も移転したからなのでしょうが、組合が統一する営業時間は、6時から9時を業務用仕入れ、9時から14時までが一般販売、それ以降は自由営業としているようです。かつて、築地の夜はひっそりとしていたものでした。最近は仕入れの人たちではなく、一般客や観光客がメインという店が増え、築地の夜も、それなりに灯りがともっているようです。(写真出典:next.rikunabi.com)

マクア渓谷